生の理由について

 最近たくさん文章を書いていてわかったことがあって、それは、一番「集中して」書いているのは、自分にとっては意外なことだけれど、携帯の長文のメールじゃないか、ということだ。ふだんぼくは携帯のメールがすごく億劫だから、あまり長くは書かないし、絵文字も最近使うようになったくらいで(でも、結構いいな、と思ってもいる。素敵なデコメ絵文字が来るとちょっと感動したりする)、たぶんぼくの携帯がキーがすごく小さくて打ちづらいのもあると思うのだけど(auMEDIA SKIN)、あまり携帯メールを書くのは好きではない。

 けれどパソコンをあまり触らないか自宅にネット環境がない、という人は結構いて、そういう人のなかにメールや手紙を書くのが好きな人というのもいるわけで、そのなかには心を動かされる、それをもらっただけで、その歓びで後の人生を生きていける、と思えるメールもあって、そんなのをもらったらやっぱり全力で返したいと思う。

 そのときに使う頭の働きはいつもと違っていて、パソコンのキーボードを打つのに近い感覚で、頭のなかに浮かんだことをそのままの速度で親指を動かして打っている。それだけでもぼくにとっては稀有だけれど、パソコンと違うのは携帯は画面が小さいから、いちいち今まで書いたところを読み返さない。パソコンで文章を書く欠点は、簡単に推敲(書き直し)ができてしまうこと、というのはぼくの私淑するある作家も言っていたが本当で、誰だって文章は直そうと思えばいくらでも直せてしまえるのだが、携帯では(少なくともぼくの場合)前に戻って書き直すなんて面倒なことはしない。それにキーが小さいから、文字を打つ以外のキータッチですぐ誤操作してしまい、今まで書いたものが全て消えてしまうことが何度もあった、という経験則もある。

 だから文章の流れ、意識の流れのその場その場で全力で考えながら書いていく。前の文との繋がり、前後の脈絡や論理はめちゃくちゃなことも多いだろうけれど、相手のメールの内容から生まれたぼくの心の反応である限り、もっと言えばただただその相手である、ということからぼくが考えたこと、という一番大きなフレームさえあれば構わなくて(それで相手に伝わるはず、というか、そういう相手じゃなかったらぼくはその人のことを好きにならない)、そういうふうに文章を書けること、書いている状態を何と言うかといえばやっぱり「幸福」だろうと思う。

 ならばぼくが書いたそういうメールには、内容の明暗に関わらず幸福感があるはずで、相手によってはそれはうっとうしいのかも知れないが、正直にいってぼくはそういうふうに感じる相手を想定していない。ぼくが考えているのは文章によっても幸福感、というのはきっと伝染するはずだ、ということで、だから人の文章が人に読まれる(場合によってはそれに対価が支払われて流通する)価値があるのだと、ぼくは信じる。