ロバート・バドロー『ブルーに生まれついて』Born to Be Blue(2015)を観ました。

 ジャズ・ミュージシャン、チェット・ベイカーイーサン・ホークが演じた伝記映画。

 私はこういう映画が作られたのを知ってから、改めて、というかほとんど初めてチェット・ベイカーの音楽を聴いてみたくらいで、この映画に描かれていることがどれくらい事実に則しているのかは知らなかった。

 これを書こうと思って検索してみたら、この映画のストーリーにおける、音楽以外の面の軸というか中心といっていい、ジェーン(カルメン・イジョゴ)というチェットの恋人は実在しないという。あるいは女優の卵であるそのジェーンがチェットの妻エレインを演じ、チェットが自分自身を演じている伝記映画も、この映画における創作のようだ(ひょっとしたら似たような話はあったのかもしれないが)。

 ということは、ドラッグ漬けの元・天才ミュージシャンが、ある献身的なパートナーとの出会いによって癒され、再起しようとするこの物語の根幹部分はほとんどフィクションで、この映画の作り手たちの「こうみたい」チェット・ベイカー像だということだろう。

 栄光と挫折。その陰に父親との確執。同時代の天才=マイルス・デイビスらの黒人ジャズメンへのコンプレックス。愛情を知らず快楽に溺れるチェット・ベイカー。そこに現れるジェーン(彼女は元妻との合わせ鏡だ)。暴力事件や自身の衰えなどの困難を乗り越えつつ、復帰への階段を少しずつ昇る彼の姿は感動的である。その意味でこの脚色は奏功している。

 しかしお話としてよくできていればいるほど、実像との隔たりに思いが至る。あるミュージシャンはチェット・ベイカーを、「本物の悪党」と敬意をもって評していた。本当はとんでもない劇薬を、わたしたちにも飲み下せる(ように見える)オブラートに包んで処方した作品であって、真実は生半可なものじゃない。チェット・ベイカーについて、実際のところどうだったのか私にはわからないが、この手のものに接するときには、そういうフィルターの存在は意識すべきだと思う。

メアリー・ハロン『アメリカン・サイコ』American Psycho(2000)を観ました。

 80年代後半のバブル経済のさなか。投資銀行の重役であって、いわゆるヤング・エグゼクティブの典型のような27歳の男(クリスチャン・ベール)が、夜な夜な快楽殺人を続けていく――。

 映画に限らずフィクションの面白さは語り口で、この映画もあらすじを端的にいうとこれだけの話で、描き方によってはホラーにもサスペンスにもなるし、この映画もそういう雰囲気があるけれど、それだけじゃない。

 どういうことかというと、おかしいのだ。主人公と同僚たちは、ろくに仕事もせずに大金を稼ぎ、各々の服装、名刺のデザイン、いきつけのレストランの格などを比較しあう。名刺の見せ合いをするシーンなどは特に印象的で、観客にとっても、傍目には違いがわからない紙質やフォント、印刷方法の差異を見比べて、文字通り一喜一憂する。観れば誰でも思うことだが、子どもが集めている玩具やカードのたぐいを見せ合いっこするのと何ら変わらない。しかしこの映画においては、この優劣をめぐって殺人にまで発展する。

 そのことのおかしさを、ことさら強調するようには描くわけではないが、殺しのたびに相手に向かってロック蘊蓄を講釈する主人公はやっぱりおかしい。曰く、『スポーツ』でセル・アウトして以降のヒューイ・ルイスが好きだとか、ジェネシスフィル・コリンズがボーカルになってからが素晴らしいとか。

 微妙な差異に拘泥するなかで殺人にのみによって「自分は他人とは違う何者かである」ということ=生のリアリティを感じる主人公の行動は徐々にエスカレートし、崩壊していく。主人公にとっての現実を相対化して、連続殺人を含む映画内の出来事を、本当に起こったことなのか、あるいは主人公の妄想なのか、と思わせる後半の展開は賛否があるようだが、妙な後味の悪さは嫌いではない、と思った。

 30年前の話でも、20年前の映画でも、今でもこれは私たちの現実なのだ、そういう感じがする。

マイケル・グランデージ『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』Genius(2016)を観ました。

 F・スコット・フィッツジェラルドアーネスト・ヘミングウェイを見い出し、世に送り出したとされる編集者、マックス・パーキンズと、同時代のもう一人の天才作家、トマス・ウルフとの交流を描いた作品。

 伝記映画であって、事の成り行きは観客にとって、周知かあるいは調べればわかるもので、この作品の場合、より一般にも有名なフィッツジェラルドヘミングウェイではなく、トマス・ウルフに焦点を当てているところが肝なのだろう。本国での現在の認知度は、日本よりはあるのかも知れないが、一般的にはそれほど知られていないのではないか。だからこそ、ドラマ映画になりうる。

 そして、具体的なエピソードがどれくらい、事実に則しているのかどうか、なかなか破天荒な人物で、芸術家肌、天才肌の作家だと伺える。しかし本人の人生がどうだったかはともかく、この映画で描かれるウルフは、フィクションの登場人物としてよくある「天才肌の作家」然としたたたずまいの範疇である。

 原題に”Genius”(天才)とある。実在の天才を伝記映画として描く場合、その伝記の作り手や、その伝記の「作り」が凡庸であっては、伝記は天才の天才性を描くことはできず、「天才に振り回された周囲はこんなに大変だったんだね」という話にしかなりにくい。

 この映画もそういうきらいがある。写真を見るとウルフ本人によく似ているジュード・ロウや、編集者パーキンズを演じるコリン・ファースに雰囲気はあるけれど、天才としても、ひとりの生活者としても、彼らがわたしたちの隣人であるような、その息づかいまでは聞こえてこなかった。これよりも、少し前に観た、よりB級でマイナーな邦題と雰囲気の『人生はローリングストーン』の方が、ずっと生き生きしていて、よかった。

トム・フーパー『リリーのすべて』The Danish Girl(2015)を観ました。

 「世界で初めて男性→女性の性適合手術を受けた人物」の伝記映画。幸せな結婚生活から、画家の妻の絵のモデルのために女装を始めたことによって、自身の性への違和感に気づき、妻との愛とのあいだで懊悩する主人公の心の動き、揺らぎを過不足なく描いている。――過不足なく、すなわち少し綺麗にまとめすぎている気もしないでもないけれど、“「美しくありたい」と願う主人公にとっての世界”、妻や周囲(あるいは観客も)にとっての、“受け止められる閾値内での、出来事の見え方”なのかもしれないと思った。

デビッド・ゼルナー『トレジャーハンター・クミコ』Kumiko, the Treasure Hunter(2014)を観ました。

 コーエン兄弟の映画『ファーゴ』を本当に「実話」と思い込んで、映画のなかでスティーヴ・ブシェミが埋めていた大金を探しにいき、ノースダコタの荒野で凍死した日本人女性の話――この映画を一行で要約するとこうなる。

 菊地凛子が演じるクミコの孤独な日常と、そして自らそれを破壊、というより消失点へと向かわせる「ファーゴ」への旅を、ドキュメンタリーのように淡々と描くこの作品はしかし、モデルとなった「タカコ・コニシ事件」を基に自由に想像の翼を広げたストーリーだという。実際にこの女性が『ファーゴ』のお宝を探しに行ったのかどうか、どうもそういうことではなかったようだ。

 クミコの日本での日常やアメリカで出会う人たちとの、交わることのないコミュニケーションはとてもヒリヒリする。会社の上司に「妻へのプレゼントを会社のクレジットカードで買って来い」と言われるくだりなど、話を進めるための部分は十分にありきたりなフィクションだが、終始無口で、時折訥々と、しかし思い詰めて「ファーゴに行きたい」と懇願するクミコの地を這うような孤独には、本当に彼女が私たちの隣に暮らしているようなリアリティがある。それもちょっと目を背けたくなる、見なかったことにしたいくらいの。そこに私たち自身の姿を見てしまうと言ってもいい。

 だからこそ彼女にとってのアメリカン・ドリームの結末は、あのようにささやかな美しさをもって描かれなければならない。純白の雪景色、「“白い”フィルム・ノワール」の『ファーゴ』の舞台であった必然が、彼女にはあったのだと思う。

 一種殺伐とした人物を演じてさえ、そのなかにある小さな輝きを見せることのできる、女優・菊地凛子さん。ますます好きになりました。これからも、こういう小規模の映画でもいいので(もちろん大作でも)、もっともっと主演作品を見たいなぁ、と思いました。

ピーター・バーグ『バトルシップ』Battleship(2012)を観ました。

 軍人の兄に無為な生活を説教される無職の青年。誕生日に兄と二人、バーで飲みながら、将来について発破をかけられるのに女をナンパすることしか考えていない。
 一目惚れして声をかけたスタイル抜群の女性に、「チキンブリトー食べたいの」と言われれば、閉店後の隣のコンビニに強引に忍び込み万引き。即警察につかまる。「ほんとにブリトー持ってきてくれたのね?」と女性はなぜか感激。
 ……その後、女性が兄のいる海軍の総督と知って、兄に言われたとおり軍隊に入隊、いつのまにか将校(大尉)に昇進している青年。女性ともラブラブ。

 というのが序盤で、なぜこんな益体もない展開をいちいち描写したかというと、この映画自体がそういうものだから。この主人公(テイラー・キッチュ演じる)の端的にいってくだらない軍隊入隊エピソードと並行して、ボイジャー計画よろしく地球外生命へのコンタクト計画が描かれるのだが、主人公のバカっぷり、コンタクト計画のいい加減さを、丁寧に(だからこそいっそうバカバカしい)見せるこの序盤で、「マジメに見る話じゃないですよ」ときっぱり宣言してくれている。

 以降は映画が要請するモードにチューニングすれば、何も考えずに楽しめる娯楽作品。中学生でも、ことによったら小学生でもわかるような無理やご都合主義も、この世界、ストーリーが必要とするレベルでは非常に理に適っている(?)とも言える。いつもより大きく声を出して、陽気に活躍する自衛隊浅野忠信艦長も素敵です。

バトルシップ [Blu-ray]

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ジェームズ・ポンソルト『人生はローリングストーン』The End of the Tour(2015)を観ました。

 ポストモダンの旗手、と謳われた新進気鋭の作家に『ローリングストーン』誌の記者が密着する、というストーリーをきくと、『あの頃ペニー・レインと』みたいな、無軌道で破天荒なロード・ムービーを期待するけれど、アーティストといってもミュージシャンと小説家の違いなのか、60年代と90年代の違いなのか、話はローテンション、低空飛行のまま続く。

 だからつまらない、退屈なのかというとこれが面白い。ジェシー・アイゼンバーグ演じるRストーンの若手記者は、自らも小説を書いて、売れていないながらも出版したこともある。ジェイソン・シーゲルが扮している小説家、デヴィッド・フォスター・ウォレスとは年齢的にも近く、記者にとっては作家はできのいい兄貴みたいなものだ。

 彼の小説に打ちのめされて、自作を朗読する作家のプロモーション・ツアーに同行取材を申し入れる記者は、憧れの作家に打ち解けながら、次第に嫉妬を抱いてることに気づく。

 旅を続けるうち、「取材対象と記者」を越え、友情かあるいは同士、師弟といった「深い」関係を結びそうになるが、二人のあいだにはテープレコーダーがある。この関係ははじめから非対称である。記者のいう言葉でいえば「駆け引き」から、どうしても逃れられない。それがとてもスリリング。

『人生はローリングストーン』というとダサい邦題のようだけど、人生のなかで、関係性のなかで演じること、演じているからリアルじゃないのではなくて、瞬間瞬間のなかでくっついたり離れたり、演じたり素になったり感情が昂ったり落ち込んだり。彼らに寄り添って感情を静かに波立たせていると、こういう映画こそが最高のエンターテイメントで、それにふさわしいタイトルだとも思えてくる。観られてよかった。