メアリー・ハロン『アメリカン・サイコ』American Psycho(2000)を観ました。

 80年代後半のバブル経済のさなか。投資銀行の重役であって、いわゆるヤング・エグゼクティブの典型のような27歳の男(クリスチャン・ベール)が、夜な夜な快楽殺人を続けていく――。

 映画に限らずフィクションの面白さは語り口で、この映画もあらすじを端的にいうとこれだけの話で、描き方によってはホラーにもサスペンスにもなるし、この映画もそういう雰囲気があるけれど、それだけじゃない。

 どういうことかというと、おかしいのだ。主人公と同僚たちは、ろくに仕事もせずに大金を稼ぎ、各々の服装、名刺のデザイン、いきつけのレストランの格などを比較しあう。名刺の見せ合いをするシーンなどは特に印象的で、観客にとっても、傍目には違いがわからない紙質やフォント、印刷方法の差異を見比べて、文字通り一喜一憂する。観れば誰でも思うことだが、子どもが集めている玩具やカードのたぐいを見せ合いっこするのと何ら変わらない。しかしこの映画においては、この優劣をめぐって殺人にまで発展する。

 そのことのおかしさを、ことさら強調するようには描くわけではないが、殺しのたびに相手に向かってロック蘊蓄を講釈する主人公はやっぱりおかしい。曰く、『スポーツ』でセル・アウトして以降のヒューイ・ルイスが好きだとか、ジェネシスフィル・コリンズがボーカルになってからが素晴らしいとか。

 微妙な差異に拘泥するなかで殺人にのみによって「自分は他人とは違う何者かである」ということ=生のリアリティを感じる主人公の行動は徐々にエスカレートし、崩壊していく。主人公にとっての現実を相対化して、連続殺人を含む映画内の出来事を、本当に起こったことなのか、あるいは主人公の妄想なのか、と思わせる後半の展開は賛否があるようだが、妙な後味の悪さは嫌いではない、と思った。

 30年前の話でも、20年前の映画でも、今でもこれは私たちの現実なのだ、そういう感じがする。