ありふれた言葉

 昨日、今日と年賀状をがりがり書く。年賀状を書くようになったのはこの数年で、書くようになったといっても一昨年まではせいぜい十数枚だったのだが、結婚した昨年から、ずっと増えてぼくの方だけで40枚くらいある(でもたったそれだけ!)。
 たったそれだけ、というのは基準が親だからで、父親はいつも500枚くらい書いていた。「書いていた」といっても印刷だが、黎明期のワープロが登場したときはワープロだったし(これが印刷に時間がかかるのだ)、パソコンが今みたいに便利になるまでは、宛名書きは手書きで父親は自分で書かずにずっと母親が書いていて(母親は職業柄字が上手い)、それだけでもかなりの仕事だっただろう。
 その大半は仕事関係のもののはずで、ぼくの40枚には仕事がらみのものは一枚もない。それがぼくのような年齢や職業の人間のスタンダードなのかどうかは知らないが、内容については、メールならいつまでも長く書くのが好きなのだが、年賀状となると短文でも何をどう書いていいか、迷い始めるとなかなか書けない。
 「短くまとまっていて気の利いたひとこと」というのが極端に苦手みたいで、ふだん書く文章もそうだけど、編集の仕事をしていたときもキャプションとかコピーみたいなのは苦手だったし、今の仕事でもFAXやメールの文面でけっこうどう書いていいか迷ってしまう。
 それでもそういうのをうまく書く人を「頭がいい」とは思っていないところが自分のひねくれているところで、その方がクリアカットだからと、ビジネスの世界(?)でありがちな外来語というかカタカナ言葉を多用する人を見ると「けっ」とか思う。
 だから年賀状は、考えるより先に手を動かして、がりがり書く。気の利いたことは書けないし、字が汚くなってスミマセン(ごめんね)、なんて思いつつ。

「私がもし地球がなくなって、ほかの星に行くことになったとして、そこの住人に『お前の住んでいた地球というところで今までに行きついた最高の思想は何だ』そうきかれた私はチュウチョなく一冊の本を手渡してこう云うだろう。『それはこれだ。「ドン・キホーテ」だよ』ってね」この言葉はどこにか書かれているか。ひょっとしたら『作家の日記』かもしれないがよく分からない。『カラマーゾフの兄弟』をじっと考えて、この返答を考えてみるといい、と私は思う。

 しかし村本の姓名をちゃんとおぼえていて、ヒデオのヒデというのが、王偏がついていることもおぼえている。ほんとうは、ぼくは一度も会ったことがないような気がする。もし彼が九十いくつで生きていたら、どんなに老人の顔になっていてもすぐ分ると思う。読者こんな内輪ばなしをすると失望するかもしれないが、燕京大学部隊で、ぼくがローズ色のカベの女子寮に二人部屋としていっしょに住んでいた相手は、この村本なのである。あるとき、ここへ集まってきた連中は、みんな変り者ばかりだね、とぼくがいったとき、(……)

 これらは好きな作家の小説の部分を今ぱらぱらめくって適当な箇所を書き写してみたのだけど、こういう文章のねじれというか論理の破綻というか「ヘン」なところが好きで、でもこういう人は本当に頭がいいんだろうと思う。とはいえ、「ヘンだ」と思うのは、今適当にこういうところだけを引用したからで、全部を読んだら一本の線というか、それこそ頭のなかが鮮明になるようなものかもしれないが。けれどぼくはこの小説の全部を読んでいないからわからない。「それで好きってどういうことだ?」というのは真っ当な疑問だけど、ぼくは与しない。いちど最後まで読めたら素敵だな、とは思っているけれど。