これ以上ないくらいおおげさな身振りで

 ぼくが彼のことを知る以前から素敵な絵を描き続けている画家の友人がいて、彼はぼくの書いたものを読んで、
 「横書きで読んだからかも知れないけど、なんかすらすら読めてしまうというか、小説っていうといろいろ起伏があって、淀むところもあれば流れるように進むところもあるんだと思うんだけど、Sくんのは同じ調子で進んでいくような気がして、そこが気になったかな。」
 ということを言ってくれたのだった(話しぶりの再現にはなっていないから、ぼくはこういう趣旨として受け取った、という意味)。
 率直な指摘というのはありがたくて、ぼくがそのとき考えたのは、別の小説を書く友人に指摘された通り途中で書きあぐねることなく「すらすら書いた」ものだったから、その辺りが影響しているんじゃないか、ということだったのだが、今はどちらかというと「それでいいじゃないか」と思っている。
 というと舌足らず過ぎるが、展開の緩急ということなら読む側の「慣れ」や「興味の持続」という問題はあったとしても、書かれるべきこと及びその書かれ方のためには、読者をfascinateするためだけに、当面の面白さのためだけに無理にそれをする必要はないということだ。

 芸術というのはぼくにとっては、「それを使って(=作ることによって、あるいは享受することによって)何かを考えること」なのだが、それは単純に「ピカソゲルニカはスペインの内戦におけるゲルニカ空爆に対する抗議のメッセージである」とかいうことではなくて、ピカソゲルニカによって観者が喚起されるのは反戦のメッセージだけではないはずで、言語化できる意図を超えたものがなければ芸術は芸術足りえない。世間に流通している芸術作品を紹介する言葉は、言語化できる言葉のみによって構成されているために作品の「本質」を全く伝えない。
 というようなことを言うと、「言葉では言い表せない」ということが強調され過ぎて、音楽にしろ美術にしろそれを言葉で伝える努力が怠られることになるのだが、「言語化できる意図を超えたもの」が含まれる、という芸術の特性はもちろん小説にも当てはまる。

 今書いている文章のような、日記やエッセイや評論のような文章によっては考えることのできない、考えを進めることのできない領域があって、その領域に足を踏み入れ、そのなかで手探りしながら書かれている小説のなかで今考えていることの考え方の枠組みを作り出しつつ考えることが小説で、なべて芸術はそういうものだという感触がぼくにはある。だから完成した作品を享受する側は、ただそれを眺めていただけでは作者が辿った過程と同様のものを感じることはできないし、それを作者に言葉によって説明されたとしてもダメだろう。なぜならそれは「言語化できない」のだから。

 だから本物の芸術を享受するとき、受け手は自分の手持ちの駒を全て使って考える必要があり、要するに「しんどい」。ほとんどの人にとって芸術は娯楽だから、それに接するのにしんどい思いをする必要も義務もないから、簡単に楽しめるものだけを享受する。
 しかし作り手は、少なくとも「それを使って何かを考えること」を旨としている作り手は絶対に、そういう最小公約数的な受け手に対してものを作るべきではない。たとえ一握りであっても、持ち得る全てを使って受け止める人たちに向かって表現すべきであり、なぜなら芸術が世界を照らし、世界を変えるからであり、それを信じる者だけが芸術家と呼ばれるからだ。