信仰について(Long Version)

 ほんの少し前までは家にいるとずっとテレビを点けていて、22時くらいからはけっこうニュースばかり見ていたのに(あまり関心もないくせに)、ここのところは木曜22時のドラマ『ありふれた奇跡』(本当に素晴らしい!)以外は全然テレビを見ていなくて、アルコールでろれつの回らない大臣も、プロ野球のキャンプもほとんど目にしていない。
 政治・経済には元から根本的な関心がないからいいとして、プロ野球の情報、とくに映像はテレビからしか入ってこないから、見たいとも思うのだが、テレビにはプロ野球への愛がないことは完全に明白だから、情報の伝えられ方にはうんざりすることの方が多い。
 しかしテレビを見ていない理由はそれではなくて、ただ見ていないだけだからそのことは今は関係ない、と言いたいところだが、愛の欠如はいかんともしがたい。

 村上春樹エルサレム賞という文学賞を受賞し、エルサレムで行ったという受賞スピーチが映像つきでテレビ放映されただけでなく(村上春樹はメディアにはほとんど顔を出さないので、そのことだけで大きな事件だということになるらしい)、そのスピーチがすごく評判になっている、というのはちらっとネットで耳にしていたのだけど、ぼくは村上春樹の小説を読むのは今でも好きだが、「関心」はなくなっているからそのスピーチを聞いたり読んだりしようと思わなくて、盟友がブログで取り上げているのを見たから、というほとんどそれだけが理由で、全文を探して読んでみる気になったのだった。
 つまりぼくには村上春樹への愛はすでに欠如していて、対象に愛がなければ人はその対象から何か大きなものを得ることはできない。

 だからその限りにおいてしかぼくはそのスピーチを読めないのだが、ぼくは村上春樹のスピーチのなかの、「卵」と「壁」というメタファーに強い違和感を覚えた。メタファーを使うことそれ自体と、「卵」という比喩で「弱い人間」が強調されることに対して。
 ぼくが信じたいと思うのは「強さ」の方で、世界を変えることができるのは「強さ」であり「意志」だと思うから、それをメタファーでなく表現したいと思う。「〜のように」という言葉を使うときは、その場に、その「〜」が物理的に現前するくらいの強度が必要だと思う。いや、違うな。「〜のように…」というとき、重要なのは喩えられる「…」ではなく、そこに現れた「〜」だ。「卵」という比喩は、人間の「弱さ」や「弱い人間」の言い換えにはなっていても、「卵」は人間の実態を映していない、恣意的に選ばれた言葉に過ぎない。

 ぼくが自分の書く詞に「夜のように美しいきみの姿」「朝のように美しいぼくの音楽」という言葉を使うとき、主=「夜」「朝」、従=「きみの姿」「ぼくの音楽」で、美しい夜や朝の美しさこそが、ぼくの心を駆動している。美しい夜や朝に喩えられるきみの姿やぼくの音楽は、夜や朝の「言い換え」ではなく、あの美しい夜や朝を今まさにここに現前させる物理的な力のことだ。

「言語は恣意的な差異の体系」とかいうのは言葉の使い手の欺瞞か怠慢か言い訳のための隠れ蓑に過ぎなくて、ただ自らの信ずるところを全うするために言葉を費やす姿勢だけが、芸術家を芸術家足らしめるのだと思う。もちろん村上春樹は「言語は恣意的な差異の体系」なんて野暮なことは言わないし、村上春樹以上の比喩のマイスターもいなくて、村上春樹の比喩には自律した美しさがあるから、ここでの村上春樹による「卵」と「壁」は、彼の文学への「信仰」に関わる、動かしがたい言葉であるか、あるいはここで選ばれた「卵」と「壁」が恣意的であることこそ、村上春樹の真骨頂なのかも知れないが、それがわかるのはぼくではなくて、村上春樹を本当に愛する者ということになる。

 ぼくがやりたいことは、何かを分かりやすく飲み込みやすく言い換える言葉を使わずに、「強さ」を手にすること。今はただ、それだけだ。