信仰について

 ほんの少し前までは家にいるとずっとテレビを点けていて、22時くらいからはけっこうニュースばかり見ていたのに(あまり関心もないくせに)、ここのところは木曜22時のドラマ『ありふれた奇跡』以外は全然テレビを見ていなくて、アルコールでろれつの回らない大臣も、プロ野球のキャンプもほとんど目にしていない。
 それで村上春樹の某賞受賞のスピーチがすごくいい、というのはちらっとネットで耳にしていたのだけど、村上春樹の小説を読むのは今でも好きだが「関心」はあまりなくなっていてそのスピーチを聞いたり読んだりしようと思わなくて、盟友がブログで取り上げているのを見た、というそのことがあったから、全文を探して読んでみる気になったのだけれど。
「卵」と「壁」というメタファーに違和感を感じて、というか、メタファーを使うことそのものと、「卵」という比喩で、「弱い人間」が強調されることに。ぼくは「強さ」を信じたいと思うから、世界を変えるのは「強さ」だと思うから、それを、メタファーでなく表現したいと思う。「〜のように」という言葉を使う時は、その場に、その「〜」が物理的に現前するくらいの、強度が必要だと思う。いや、違うな。「〜のように…」というとき、重要なのは喩えられる「…」ではなく、そこに現れた「〜」だ。
 何かを分かりやすく、あるいは飲み込みやすく、言い換える言葉を使わずに、「強さ」を手にすること。ぼくがやりたいことは、それだけだ。

 それと、ことさら政治的な側面から報道されるニュース映像には辟易したけれど、そういうつもりがなくても、その場所に立ってしまえば何らかの政治性を帯びてしまうことは抗いがたく、政治というのは怖いものだ、と思う。自らの信じるところではないフィールドには、立ってはならない、ということ。どんなに「逃げるのか?」と罵られようとも。