「考えられた時間」の力

 誰かによって何かが誰かにもたらされるときにいちばん大切なのは何といっても「量」で、人が話したことや書いたこと、やったことに対して人は色々な反応をするわけだが、「私のこと」にその人がそれだけの時間をかけてくれた、ということは本当にかけがえがない。
 ――ということを、ぼくは今日の夜、つまりついさっき、思いがけずもらった遠くにいる友人からのメールで思って、というのはその人がそのメールを携帯で打っていたがために(?)降りる駅を乗り過ごしてしまったみたいで、だからもうそれ以上に言葉はなくて、だからこれからは何を書いても蛇足になるのだけれど、その人によれば、文字というのは
 「一番シンプルで、地味で退屈な信号」
 だから、ぼくがここに何を書き連ねようが、「文字だから視覚だけど」「黒いし大抵小さいし」取るに足らないもので、だからこそそれが誰かの何かに反応して、それで誰かが何かを思うのだから、ぼくも文章の連なり=本が好きで、本が好きな人のなかでぼくが好きだと思う人が好きなのだと思う。
 あなたが言ったことのなかで一番心に残った、心をかき混ぜた、胸をわしづかみにした、脳をくすぐった、メールの文字を追う目を戸惑わせた、キーボードを打つ手を戸惑わせた、「何か」だったのは、
 「うさぎについてのSさんの文章を読んだ時に私の頭に浮かぶうさぎは私じゃなくて、私が考えたうさぎについてのあれこれも、その文章を書いたSさんに対する気持ちも私じゃなくて、でもその文章を読んで「私」が変化することはあると思った」
 というところで、何度読んでもあなたの頭に浮かぶ「私」のイメージは、たぶんぼくの「私」とは違う(抽象的な言葉ほど、個人による誤差は大きい)。
 それだけじゃなくて、「うさぎについて」のぼくの文章、っていう例がおかしくて、うさぎについての文章はぼくは書いたことがないけれど、ここで例として選ばれたのが他ならぬ「うさぎ」だったことがぼくには印象深い。
 なぜならぼくにとってではなくても、ぼくの知っている別の誰かにとって「うさぎ」はかけがえのないものであり言葉だからで、その人にとっての「うさぎ」はぼくにとっての「うさぎ」とは比べものにならないくらい豊穣な何かで、だからその人の周りの人にとっても豊穣な何かということになる。もし、その人が「今ここ」にいないのだとすればなおさらそうなる。
 ひょっとしたらあなたにとって「うさぎ」がそうじゃなくても、あなたにとってのそういう言葉をイメージして、メールのここの文章が書かれたのかもしれないと思ってみるのも、なかなか悪くない(心地よい)想像だけれど、そうじゃなくてもいいと思う。
 そんなふうに思いがけず誰かがどこかで人知れず別の誰かの何かを考えていることが、別の誰かに届くだけじゃなくて届かなかったとしても、考えている誰かにとってだけじゃなくて、考えられている別の誰かにとっても「その考えられた時間」が意味があるというか、その時間が「祝福」になると考えることができたら、いや、それが「祝福」であると言い切れるなら、それは「言葉」の力じゃなくて「考えられた時間」の力で、だから人間は言葉によって人間であるのではなくて、人が発したり考えたりした言葉は「その人」というより、その人から出たその人以外=「世界」で、だとしたらやっぱりあなたが言うように、世界にとって世界じゃないのはぼくの、あなたの「この身体」だけなのかな、とぼくも思った。