好き?好き?大好き?

 いろいろと抱えている問題はあるにせよ、今は人生最良の瞬間のうちのひとつに入るかもしれないと思えたりもするこの頃だけど、セルフ・イメージと、人から持たれるイメージが乖離してきてるな、なんてことを思う。
 自分では「人見知り」「気が短い」と思っているし、「ガリガリ」(外見)だと思っていた。まあ外見は今はさすがにそうは言えないどころか太り気味だというのもわかっていてランニングをしたりするくらいだが、どうかすると「tkfmsくんは誰とでも仲良くできてすごい」とか「人見知りなわけないでしょ」なんて言われてしまって、どういうことかと思う。
 大人になって人との距離感の取り方がうまくなったというとわかりやすい回答のようだがたぶんまったく逆で、今でも全然それはわからない。というか、人の気持ちを忖度しても人の気持ちを推し量るのは人一倍苦手だから無駄だということで(妻にも「あなたは人の気持ちがわからない」とよく言われる)、いつ頃からかはっきりと、人の気持ちを忖度することはやめてしまった。それでどうするのかというと取りも直さず自分の気持ちを全面に出すということで、好きな人の前ではたぶんわかりすぎるくらいそれが出ていると思う。
 それにぼくは「好き」という気持ちには一種類しかないと思っているから「好き」に男女の差もなくて(好きな人の性質は男女で異なるが)、精神的にはバイセクシャルじゃないかと思うくらいで、好きな女の子なんてたくさんいるけれど「妻を悲しませない」というのがぼくの人生の大きなテーマでやっぱり妻はスペシャルな存在で大好きだから、セックスをしたいとは思わない。「当たり前だ!」あるいは「嘘だろ!」と、男女両方から突っ込まれそうだが。ぼくはモテたことがないから女の子と話すのは楽しくてしょうがなくて(たぶんそういうのも人にはすぐわかるんだろうな)、好きなことについてちゃんと話が出来る同性と話すのも楽しくてしょうがない。
 そういう「楽しくてしょうがなさ」はずっと続くことはない、というのが物語だと思っている人がたくさんいるから物語には幸福に続く不幸への転落やさらにその乗り越え、というような起伏がいっぱい書かれるけれど、ぼくはそれには強く抵抗したい気持ちが強くて、それは何もぼくが書いたりするときの姿勢だけじゃなくて、「楽しくてしょうがないひととき」がずっと続いたっていいじゃないか、と思っている。というか、そう思えなかったら、今ぼくの周りにいてくれる人たち、近くにいなくてもときどきぼくのことを思ってくれる人たちに失礼じゃないかと思う。そう思うのが今のぼくの信条というより信仰で、それが表に出ているとしたら社交的に見えるのかもしれないと思う。
 それでそういうずっと続く楽しさを、ぼくの場合文章で現前させることができたら、例えば「真っ暗な暗い海の底の方でひとりぼっち」なんてどこかのバンドの歌詞のような、いつかの自分のような人間にとっても福音となるものが生み出せるはずだ、と信じている。こういう書き方をすると、「tkfmsくんも暗い過去を背負っているんだねぇ」と、かわいそうな目をする人が必ずいるだろうが、当たらずとも遠からずです(なんて書くとやっぱり本気にされかねない)。
 真夜中というか明け方にこういうことを書くと後で後悔するというのは経験的に知られている事実だし、突っ込みどころが満載な気がしつつ、少し前の日記に「「好き」という気持ちと、「愛」と「セックス」について書こうと決めていた」、なんて書いていたこともあったし、だからこのまま「保存する」のボタンを押してみます。たぶん明日の自分に突っ込まれるだろうけれど。