「すべての言葉はそれゆえに信用に値しないのではなく、そのつど本当のこととして語られている。」

 久しぶりに抜き書き
 そのうち、

 声に出された言葉と心の中の言葉と地の文によって語られた言葉、すべての言葉に真偽の差や序列はない。すべての言葉はそれゆえに信用に値しないのではなく、そのつど本当のこととして語られている。

 というくだりは、深く心に刻んでおこうと思う。
 前にぼくが、「文学に行間はない。」とこの日記に書いたことは、ちゃんと言葉にするとこういうことじゃないだろうか、と思う。
 それに関連して、先日、「妹」であるところの友人に、
 「ぼくは人の気持ちを忖度しないし、言われた言葉、書かれた言葉がすべて、それ以上の(言外の)意味はない、という思いをなかば「信仰」のように持っていて、それを言いふらしてもいるために、もし、ぼくを陥れるつもりで近づいて、「美人局」のようなことをされたらカンタンに引っかかると思うよ。」
 ということを話したのだが、口に出してしまったために、そのことが少し引っかかっている。少しだけど。「本当にいつか誰かにダマされるんじゃないだろうか」って。
 文学とか小説の話を持ち出すと、モノを作っている人間までもが、関係ないこととして聞いているように感じることも多くて、ぼくは音楽だろうが美術だろうが映画だろうが演劇だろうが他のどんな表現だろうが同じことだと思っているのに、作り手というのは論理的な言葉というのを遠ざけているところがあってある面ではそれは正しいのだろうが、普通に使われる論理性は作品に対する記述としては物足りないものだとしても、その表現について語るために語りながら作られていくその場のために作られた、その場以外では通用しないが、その場について言葉にするには必要な言葉というのはあるはずで、そのためにはもっと言葉を重ねたり、言葉に耳を傾けたりする必要があるんじゃないかと強く思う。
 それは自戒をこめてででもあって、
 「行間はない。」
 「その場その場でやっていることがすべて。」
 というのはたとえ人に通じにくくても自分にとっては自明のことで、そこから先について言葉を重ねなくては、そこから先に進むことはできないんじゃないかと思う。