長谷川町蔵・大和田俊之『文化系のためのヒップホップ入門』

 最近読んだ本。アメリカのヒップホップの歴史をライターの長谷川町蔵さんと学者の大和田俊之さんが対談で概説。「ヒップホップは音楽ではない」「ヒップホップは『少年ジャンプ』である」「ヒップホップはプロレスである」「ヒップホップは『お笑い』である」「ヒップホップに内面はない」「ロックは個、ヒップホップは場」とかヒップホップって何? っていう疑問に答えてくれて面白いし、細かいエピソードも面白い。

大和田:
日本の一部のファンは「甘く切なくやるせない」スウィートなソウル・ミュージックのことを「甘茶ソウル」と呼びますが、このモーメンツを中心とするニュージャージー・ソウルはそのなかでももっとも甘い、というかむしろエロい(笑)。曲の途中で喘ぎ声みたいなのがずっと続いたり、一般にスウィートなサウンドといわれるフィラデルフィア・ソウルよりさらに甘いんですよ。彼女がヒップホップの黎明期にかかわっているのは面白い。
(44-45ページ)
※80年代はじめ、黎明期のヒップホップを代表するレーベル、シュガーヒル・レコードを立ち上げた(79年設立)R&Bシンガー、シルヴィア・ロビンソンについて

大和田:
あと日本の場合、ニューウェーヴを聴いてきた層は文化エリートかサブカル・エリートが中心で、おそらく彼らは地元のヤンキー的価値観を憎悪しているんですよ(笑)。
(122ページ)

長谷川:
東海岸のようにコンプレッションがかかったこもった音ではなくて、隙間を活かしたリヴァーヴが効いた音なんです。これはロサンゼルスという地域性が大きいでしょうね。ニューヨークと違って、音楽が圧倒的にカーステレオで聴かれていますから。車で気持ちよく響くサウンドを志向したことで、音楽性が変質したところがあるんです。その点も郊外に住む白人にウケた理由なんでしょうね。
(126-127ページ)

長谷川:
ドレーっていわゆるミュージシャン・エゴが欠落しているんですよ。サウンドのクオリティの追求に関しては完全にパラノイアなんですけど、それはあくまで、コミュニティの日常を彩るツールとしての機能を上げんがためなんですよ。でも、もしかするとドレーだけじゃなくて、ヒップホップ自体が自己表現するための音楽ではなかったんじゃないかって思い始めたら、オセロの石がバーっと白から黒にひっくり返るようにヒップホップの聴き方が変わってしまったんです。
(150ページ)

長谷川:
「今日はいい日だったなあ」って、平穏な光景を延々ラップしておいて、最後に「今日は、俺の仲間は誰も撃たれなかった」で締める。
(133ページ)
アイス・キューブ

文化系のためのヒップホップ入門 (いりぐちアルテス002)

文化系のためのヒップホップ入門 (いりぐちアルテス002)

TBSラジオ「菊地成孔の粋な夜電波」2015.09.11放送回より聴き起こし

毎週末聴いている、このラジオ番組。先日8/28の放送で、「選曲請負人・菊地成孔が女の子のためにひと肌脱ぎます『菊地成孔のミュージックプレゼント!フォー・ウーマン・オンリー』」という特集があり、その後日譚として9/11の放送で菊地成孔さんが話されていたことがとてもよかったので、録音していたのを聴きながら文字起こししてみました。

先々週スペシャルウィークで、時間の都合でカットせざるを得なかったんですけど。先々週はね、林(みなほ)さんのレズ疑惑を晴らさなきゃいけなかったんでね。あのとき最後の曲で、言い出せない人、告白できない、あと男女の間に友情はあるか、友達なのか恋人なのか、離婚したけど今は友達――これでいいのか、とかそういう類型のお便りがものすごく多かったんですよ。

それに対して私が申し上げたことがあったんですけど、真ん中電話なんかもあったりしてね、ラジオ番組ですから、カットになっちゃったんで、もう一回改めて申し上げますけど。要するに私がそういった方々に申し上げたいのは、現代人というのはもうちょっとエロティークになるべきだと思います、やっぱり。エロティークなんてね、しかも私がいうとあれですけど、身体を鍛えて露出の多い服を着て夜の街に繰り出そうとかね、自分のフェティッシュにとことん溺れ切ろうとかですね、とにかく誰かれ構わずセックスしてしまえとかですね、そういう話じゃなくてですよ。

現代人はとにかくフェティッシュになっちゃってて、オルガスムスとかある種の高揚がみんなフェチに行っちゃってるんで。それこそ萌え尽きちゃってるんですよね、「萌えー」の方ね。ヘルシーなエロティカの力がすごい低下してると思うの。それはね、人間の生きる力と関係してるの、底力と。

バタイユって人がいて、ぎりぎり19世紀生まれの、ちょっと頭のおかしい人ですけど、彼は有名なね、「蕩尽理論」っていう、エロティシズムの。越してはならない一線を越すと、最高に興奮するんだ。というね。まあタブーを破るということですけど。まあ一般的というかね、エロティシズム論としてこの考え方は100年はもったと思うんですけど。もう時代は変わっちゃってますから、世の中ね、射精やオルガスムスの阿片窟みたいになっちゃってて。

しかもそれが、消費行動――エロいものってことだけじゃなくて、あと風俗とかそういうことじゃなくて――アイドルを追いかけたりするようなことにも繋がってますし。あと無消費行動ね、まったく反転した、私が昔「ゼロ円ファン」って言葉を作りましたけど、ゼロ円でファンができるというような。つまり結局ね、資本主義社会のなかで、エロティックである、エロティカであることに、なんかね、罪悪感や無力感が残ってしまうわけ。

健全なエロティシズムっていうのは、やっぱ、生きる歓び、ね。まあなんていうんですかね、私は幸いにして音楽っていう仕事があって、まあ呪われてるともいえるんですけど。演奏している間はずっとトランスしてるから、とんでもなくエロい。演奏しているあいだは全員に性欲感じますからね。ただ、演奏しているからできないわけですよ。ステージ上でおっぱじまっちゃったら大変ですからね、違うショーになっちゃいますから、だからやらないんだけど。

まあ世の中音楽やったり聴いたりしないって方もおりますわな。そういう方がこの番組聴いてるかどうかよくわかりませんけれども、まあ聴いていたとして。もう、さすがに聴いてる方はお察しだと思いますけど、こうやって喋ってるのも音楽と一緒なんです、私。演奏しているのと変わらないんですよね。
まあそれはともかく。

あのね、いきなりですけど、人間関係のなかでもっともヘルシーでエロティックな関係というのは、
「お互いがセックスしたいってわかってるんだけど、絶対にしない」
関係だと思うんですよ。一生しないんですよ。私これが、男女の友情の定義でもいいと思います。21世紀は。

やっちゃったらね、それはつまりバタイユのエロティシズムで、破っちゃってるわけだから、禁止を。そのときはすげえ興奮すると思うんですけど、やった瞬間から「黄金」はもう「クソ」に変わり始めてるの。あとはもうクソまみれですよ。バタイユだけに、っていうわけじゃないですけどね。

で、今って、「何かがやりたいけどできない」っていうことが、すごく屈辱的で怨念的に響いちゃう時代だと思うんですね。幼稚っていうかね。欲しいオモチャがあるのに買ってもらえない的なさ。偉い人が悪い的なね。偉い人なんて悪いに決まってるじゃんね。

でもまあ、そういうのと全然違うんですよ。
「俺たちは誤解や勘違いではなく、はっきりやりたいと思ってる、言葉にしてないけど。だけどやらない。なぜなら友だちだから。」
っていう時間をね、極端にいうと楽しむわけ、過ごすっていうか。私がいってるのは、あれじゃないですよ、ピューリタニズム的なプラトニックラブ崇拝とかね、あるいはマゾヒズムとかね、禁欲的な。恋愛とも、準恋愛とも違うの。

人間にはね、「抑止力」っていうものが備わっているんですよ。これがないとね、子どもは全員父親を殺しちゃうわけね。父親に殺意を持つ、でも殺せない。ここに屈辱や無力感だけじゃない、抑止力の効果を学ぶ、これが「健全に発達する」ってことなの。順当な発達の流れですよ、これはね。そういうところから始まって、抑止力のあらゆる力があらゆる場所に広がっているわけ。

ポケットのなかに鉛筆一本あって、飲み屋で絡まれたら、殺人なんて簡単なのよ。ライブ中に「アンプのヴォリューム最大にしたいな」で、「PAぶっ壊したいな」って、やるのは簡単なのよ。ツマミをこうやってやるだけだから。でもやらないわけ。会社に行くと、何となく気になる子がいて、テメエには女房子どもがいて。以下同文なのよ。簡単なことなわけ。でも、やらないわけ。

世界は抑止力によって、すげえ「いい感じ」になってるんですよ。そういうものがね、やせ我慢とか、抑圧とか、欲しいオモチャが手に入らない。って感覚で捉えられちゃうと、要するに抑止力っていう素晴らしい能力−―人間はね、頭のおかしくなった猿なわけで、地球からみたらろくでもない生き物なんですけど、抑止力っていうのは私、ちょっといいな、と思うんです。けっこう、人類ってのも捨てたもんじゃねえな、っていう能力のひとつだと思うんです。

江戸時代はこれを「粋である」といったと思うのね。まあ、「大人って何ですか?」ってよく訊かれるんですよ。52歳にもなると。私なんか、聴いててわかると思いますけど「弟キャラ」のガキですけどね。だから私なんかに訊いてもしょうがないと思うんですけど、ジャズなんかやってると「大人って何ですか?」ってよくいわれますね、
「抑止力をエレガントに扱えて愉しめる人」
だと思います。大人っていうのは。

恋愛は狂おしいですよね。性愛が入ってくるともっと狂おしくなったり、逆に一気に冷めちゃったりしますけど。恋愛でも性愛でもない、抑止された状態っていうのはね、音楽には描かれる――音楽は万能だから、何でも描かれてると思うの。だからバート・バカラックっていうね。そういう人にはバート・バカラックっていう、そういう流れだったんですけどね。まあとにかくあの日は(林みなほさんの)レズ疑惑を晴らさないといけなかったんで、ここら辺の話が全カットになったんですよね。

まあ言葉でいってもややこしいばかりです。音楽でいきましょう、とにかくね。全ての、言い出せない人、友情や恋や性欲が、友情か恋か性欲かわかんなくなってきちゃった、入ってきちゃって、この関係に。どうしようって動揺してる人、いっぱいいると思うんですよ。その人にね、聴いていただきたいです、この曲を。

甘いお酒かなんかを飲んじゃって、この曲を聴いてると。そしたらちょっとなんか、別に何の意味もないんだけど、自然と身体が踊っちゃった、と。そしたら、そのお相手の人ね、お友だちなんだけど、気持ちがひょっとしたら一線を越えたかもしれないと思われてる、その相手の方も、なんか踊ってた。結局二人でなんか踊っちゃった、一曲。別にそれで何か触ったとかじゃなくてですよ。同じ曲で踊っちゃった、と。そこまで。そこまでで、十分、セクシーで、充実してて、幸せ。これが、我々のもっともヘルシーなピークなんだ。っていうふうに思えたらいいですよね。

そういう願いを込めて、まあバカラックは贈っちゃたんで。バカラックは切なめの方だから、もうちょっと開きめの方。まあなんとですね、どんな曲かといったら、ラスタファリアンですよ。この番組でも何度かお世話になっているイギリスのSOUL JAZZ RECORDがコンピレーションした、「Rastafari : The Dreads Enter Babylon 1955 to 83」。55年から83年の、これはラヴァーズ(・ロック)みたいなチャラいやつじゃなくて、ガチのラスタファリアンによる音楽なんですけれども。ガチなだけに、今いったような意味で聴いていただきたいですね。

というわけで、Ashanti Roy、その道では有名な方の曲です。「Hail The Words Of Jah」。「Jah(ジャー)」っていうのは「ジャーラスタファーライ」、ラスタファリアンの挨拶の最初につく言葉ですね。わたしも意味がわからないですけれども、ラスタファリアンの間ではよく使われる言葉です。

Rastafari The Dreads Enter Babylon 1955-83

Rastafari The Dreads Enter Babylon 1955-83

音楽、街

 シンガー、市川愛さんのライブを、9/11中洲ジャズブルーステージ、9/13福岡市のパブ「Habit」で見ました。心から楽しかった。
 そしてライブのあと、検索していたら市川愛さんがフィッシュマンズの「いかれたBaby」をカヴァーしている(Monolog+Ai Ichikawa「The Limelight」に収録)ことを知り、静かに興奮してどきどきしています。こういうふうに繋がるのはとても嬉しいなぁ。来年のフィッシュマンズナイト大阪でかけてみたい。と思ったりしました。

THE LIMELIGHT

THE LIMELIGHT

こだま和文を読む

 ここには、ひとつ前の日記に書いたようなことを書いていこうと、それを書いた9月6日には思ったのですが、次の日にはもうその気持ちは薄れていて、結局今まで通りです。9月5日に書いたようなことは、また書くかもしれませんが。
 こだま和文『いつの日かダブトランペッターと呼ばれるようになった』(東京キララ社、2014年)を読んでいます。こういう本が出ていることにも驚いたし、図書館に置いてることにも驚いた。誰かがリクエストしたんでしょうね。図書館というところは、リクエストするとけっこう入れてくれるんですよ。これはけっこう重要なことで、わたしにとっては投票の他には、自分がやっているほとんど唯一の政治運動だと思っています(大げさですが)。
 というわけで買わずに図書館で借りておいてなんですが、とても面白いです。まだ四分の一くらいしか読んでいないのですが、いくつか印象に残ったところを抜き書きしました。1955年生まれのこだま和文さんの、1972年から1982年、上京からミュート・ビート結成までを語ったインタビューの聞き書きをまとめた本のようです。

 美術? ああ好きだったよ。でも、美術の中でも嫌いなもの、好きなものってのがはっきり分かれてしまうんだよ。「好きな絵を描いていいですよ」であればいいんだけど、デザインで定規を使ったりコンパスを使ったり、ちょっとでも理数系のものが入ってくるともう嫌なんだ。だから、何事においても?レンジがものすごく狭い?んだよ。なぜこんなことを一生懸命喋らなきゃならないんだ(笑)。(19ページ)

 話が重複するけど、中学2年……いや、もっと前かな? ?嫌な少年?って自分で呼んでいるんだけど、小学校6年の時に父が亡くなった後、なんか変な自分になるんだよ。何事にも反抗的で、周りを敵視したり、友達が欲しいと望んでいるのに人を避けたりさ。嫌われる変な奴ってどの時代にもいるんだろうけど。ちょっと嫌な奴だった。
 今はいいよな、オタクならオタクって括りの中で楽しめる場を作るじゃない。秋葉原とか。今や、あれも少数派じゃないものな。ところが僕が少年から青年になる段階では、オタクってパッケージもなく、何を考えているのか分からない変な奴としか見られない。(24-25ページ)

 姉は洋楽が好きだったか? 好きだったよ。僕が洋楽を聴くきっかけは、やはり姉になるのかな。とにかく僕は子供の時からずっと姉が好きで、本当は全部自分で食べたいショートケーキを、姉に好かれたいばっかりに半分残してあげるような弟だった。でも、それは間違いだったよ(笑)。
結局、その男子特有の青臭さは、女子との関係において弊害以外の何物でもないんだよ。姉なんか放っとけばよかったんだ。でも、ふたり姉弟の姉ってのは、弟からすると特別な存在なんだろうね。(28-29ページ)

 練習して、バイトして。そんでシゲちゃんに誘われた時だけ、なかば嫌々ライブに行くんだ。大嫌いだったの、夜の地下の暗い世界が。ディスコも嫌い。つまり、嫌いなのにそういう世界でやっていけてる自分がいるわけだよ。それに反発する自分もいる。後者の自分が絵の世界に憧れていったんだと思う。(33ページ)

 ミュージシャン同士の決まった会話。「どう? 元気⁉︎」とか「ビートルズのあの曲サイコ〜‼︎」みたいな、そういう能天気なハッピー感ってついていけないんだよ。自分の気持ちが沈んでる時なんかは、正直な心情でいたいんだよな。もちろん、音楽は好きだし、一緒に音楽をやる人達はすごく大切なんだけど、上手くコミュニケーションが取れない。(35ページ)

窓の外を見ると

わたしは今、朝七時頃起きて自分の朝食を作って食べ、そのあとストレッチ。午前中は小説を書き、昼食をわたしか家族の誰かが作ってそれを食べる。昼食後二時くらいまでは本を読んだりウクレレの練習をして、二時頃から三時頃にかけてコーヒーメーカーで家族三人分のコーヒを入れて飲む。それから市立のスポーツジムで筋トレとスイミング、六時頃帰ってきて夕食を家族とともに誂えて食べる。22時から23時頃までテレビを観たり本を読んだりして過ごし、アロマオイルを使ってセルフマッサージをして0時くらいまでに寝る。というような生活をしています。

30代の男性としては特異な日常ではないかと思います。仕事をしていないから。小説を書いているけれどわたしはデビューしていないから小説家ではなくて、それがお金になっているわけではなくだからそれは職業ではありません。仕事は休んでもう半年近くになり、家族と書いたのは両親で今はわたしは実家に暮らしています。今は、と書いたのは結婚していて子どもがいるからで、色々な理由により妻子と別れて暮らして数ヶ月になるところです(離婚しているわけではない)。

休みはじめて半年、実家に来て数ヶ月でわたしがこういう日常を過ごしているのは、今していることは全てわたしがしたいことだけなのだ、ということに、ここ数日で気付きました。もちろん全ての欲望に忠実に、欲望を全て叶えているわけではありません。そんなことをしていたらお金がいくらあっても足りませんし、法律を犯すことにもなりかねません。まああえてそんなことはしないとしても、今一緒に暮らしている両親の日常や都合もあり、それに合わせていることももちろんあり、それは家族や同居人がいる全ての人がそうだと思いますが。

それでもわたしが今していることは、全てわたしがやりたいことで、そう考えると、わたしは今とても幸福だといえるんじゃないのか?と思っています。(もちろん不安はたくさんあります。このまま復職できなければ職を失うでしょうし、うまくいって復職したとして、以前と同じように働き続けることができるのか、というより以前と同じようにまたうつになって働けなくなってしまうのではないか。あるいはこうなる以前と同じようにまた生活できるのか、それがいいことなのか。自分の望まない結果になってしまう可能性もあると思います。)

朝はパン

1.
 ある男性のミュージシャンはステージに上がるとき、理性によって自分のリビドーを抑えてはならない。と語った。たとえば女性アーティストと共演する。現実で彼女と社交する際には、例えば彼女に対して性的な感情を持ったとしてもそれは抑えらえる。しかしステージの上で最高のパフォーマンスをするためには、それを抑えてはならない。ということだった。

2.
 病院で心理テストを受けたあと、担当の臨床心理士の方(女性)が主治医の診察室へ案内してくれた。わたしは先ほどのテストで図形的な操作、算数、計算の類があってそういうものに対して苦手意識があるといった。彼女はそれに対して、
「十分できていますよ。苦手意識は持たなくていいと思います。」
 といった。また歩きながらわたしは、
「この病院はすごく敷地が広いですね。迷ってしまいます。僕は空間認識能力にも自信がないというか、例えばお店とかに入って、出るときに右から来たか左から来たか、わからなくなったり。」
 といったら、彼女は、
「でも笑い話にできるレベルですから、いいと思いますよ。」
 と返してくれた。ということは「笑い話では済まないレベル」の話を彼女は職業柄、たくさん知っているのだろうと思って、どきっとした。

3.
 小沢健二の母である臨床心理学者、小沢牧子の本を少し、読み始めた。氏は心理テストやカウンセリングを実践する心理臨床職として携わったのち、現在は、今ある臨床心理学、カウンセリングの技法に批判的な立場で活動を続けているようだ。小沢健二の著作もその影響下にあると思う(読んだのはもう何年も前になるから記憶があいまいだが、『企業的な社会、セラピー的な社会』は小沢牧子氏と同様「心の管理」を批判する内容であったと記憶している)。
 小沢母子のいうことはもっともだという気がする。けれどわたし個人の問題としては、臨床心理士の仕事やカウンセリングを頼ることによって、わたし自身の心の平安を保ちたいとも思っている。
 原理原則や理想だけを語っても、それだけでは現実には対処できない、という問題。

大橋マキ『アロマの惑星』を読みました。

 大橋マキ『アロマの惑星』(木楽舎、2005年)を読みました。
 元アナウンサーで、アロマセラピストの著者によるアロマにまつわるエッセイ。軽めのエッセイだからといって、からっぽとかテキトーなものとはぜんぜん感じられず、真面目で誠実で、肩肘張らない、という感じの、著者の姿勢が滲んでいるような、とても心地の好い本でした。
 著者がアナウンサーとして「すぽると」とかに出ていた頃、テレビを見て、軽い気持ちで「かわいいなー」とか思っていたのを思い出しました。
 受け手の勝手な気持ちですが、そういう人に、こんな形で再会するのは嬉しいものですね。自分もそんなふうに、少しずつ成長したいな。以下、本書からの抜き書き。

 アロマを利用する上で忘れてはならないこと、それは、香りの体験はとても個人的だということです。ある人には心地いい香りが、他の人にはそうではないことがあります。
(6ページ)

 アロマセラピストをやっていても、これほどの臭いに遭遇する機会は、おそらくもう一生ないでしょう。いや、ないことを願います。鼻の奥のほう、さらには脳味噌の細胞の一つひとつにまで、いまだにニオイがへばりついて取れない、濃度が非常に高く、すこしだけ甘みのある悪臭でした。どろどろのジーパンをはいたまま、堆肥場の水道水で洗い流してみたものの、強烈な臭いが落ちるわけがありません。結局、大きなゴミ袋をズボンの上からすっぽりと穿き、ウェストを紐でしばって臭いを封じ込め、そのまま車で宿へ向かいました。
(22-23ページ)

怖い話のようですが、死期が近づくと、人の体はどことなく「甘み」を帯びた体臭を放つそうです。驚いたことに、花の女王・ジャスミンにも、これとまったく同じ香り成分が含まれているという分析もあります。あの肥溜めにも、香ばしい甘さがあったのを思うと、いまさらながらに背筋が寒くなるようです。でも、香水のブレンディングをするとき、単品ではひどく癖のあるニオイでも、他の香りとブレンドすると、なんともセクシーな印象に変身してしまうことが少なからずあります。ひょっとすると、死臭ともいえる肥溜め臭をすこしだけ混ぜたら、浮世離れした艶っぽい香水ができるかもしれません。
(26ページ)

 私には、ここぞという場面で手放せない香りがあります。むやみに励まされると萎縮してしまうようなとき、フランキンセンスという樹脂の香りは不安を包んで、背中をそっと押してくれます。
(47ページ)

 路地裏の苔に、水分といっしょに苔の厚みと同じ時間の生活臭が染みこんでるかもしれない。そう思って、一度だけ、苔の隅っこを少し頂戴したことがあります。
 豆鉢の土を軽くおさえて水をたっぷりやって<あの>匂いを期待したのですが、どういうわけかぜんぜん違う。もうすでに苔単体の退屈な匂い。なんだか立ち入っちゃならないところに土足で踏み込んでしまったような申し訳ない気持ちになって、結局、いそいそと元に戻しました。
(51ページ)

ドイツの小説にも体臭のない男が芳しい匂いを求めて美女殺しを繰り返す話があったけれど、においのない世界っていうのは、ものすごく薄気味悪いものかもしれません。
(110ページ)

遺伝子に直接働きかける香りの研究まで始まっていますが、もしも香りが薬よりも心身の深い部分に的確に入り込んでいけるとしたら、ゆらゆらと不安定だからこそ魅力的な香りと人間の絶妙な距離感は失われてしまうのでしょうか。匂いはいつだって少し秘密めいているくらいがいいのに。
(117-118ページ)

毛利衛さん 宇宙飛行士
1 ゼラニウム
2 ジャスミン
3 パチュリー
 地球に帰還したシャトルのハッチを開けると、「クルーの2週間分の生活臭が、地上で迎えてくれた人たちには物凄く臭いらしい」と毛利さんが教えてくださったことがあって、無機質な宇宙のイメージとのギャップが印象的でした。この生活臭は仲間内ではきっと不快なものではなくて、温かみのあるものなんじゃないかなあと想像しながら、ブレンドをつくってみたところ、宇宙飛行士のイメージとは程遠い、母性的・女性的なセクシーな香りになりました。不思議な偶然ですが、1960年代に人気だった香水のブレンドに近いことがわかりました。
(124ページ)

アロマの惑星

アロマの惑星