TBSラジオ「菊地成孔の粋な夜電波」2015.09.11放送回より聴き起こし

毎週末聴いている、このラジオ番組。先日8/28の放送で、「選曲請負人・菊地成孔が女の子のためにひと肌脱ぎます『菊地成孔のミュージックプレゼント!フォー・ウーマン・オンリー』」という特集があり、その後日譚として9/11の放送で菊地成孔さんが話されていたことがとてもよかったので、録音していたのを聴きながら文字起こししてみました。

先々週スペシャルウィークで、時間の都合でカットせざるを得なかったんですけど。先々週はね、林(みなほ)さんのレズ疑惑を晴らさなきゃいけなかったんでね。あのとき最後の曲で、言い出せない人、告白できない、あと男女の間に友情はあるか、友達なのか恋人なのか、離婚したけど今は友達――これでいいのか、とかそういう類型のお便りがものすごく多かったんですよ。

それに対して私が申し上げたことがあったんですけど、真ん中電話なんかもあったりしてね、ラジオ番組ですから、カットになっちゃったんで、もう一回改めて申し上げますけど。要するに私がそういった方々に申し上げたいのは、現代人というのはもうちょっとエロティークになるべきだと思います、やっぱり。エロティークなんてね、しかも私がいうとあれですけど、身体を鍛えて露出の多い服を着て夜の街に繰り出そうとかね、自分のフェティッシュにとことん溺れ切ろうとかですね、とにかく誰かれ構わずセックスしてしまえとかですね、そういう話じゃなくてですよ。

現代人はとにかくフェティッシュになっちゃってて、オルガスムスとかある種の高揚がみんなフェチに行っちゃってるんで。それこそ萌え尽きちゃってるんですよね、「萌えー」の方ね。ヘルシーなエロティカの力がすごい低下してると思うの。それはね、人間の生きる力と関係してるの、底力と。

バタイユって人がいて、ぎりぎり19世紀生まれの、ちょっと頭のおかしい人ですけど、彼は有名なね、「蕩尽理論」っていう、エロティシズムの。越してはならない一線を越すと、最高に興奮するんだ。というね。まあタブーを破るということですけど。まあ一般的というかね、エロティシズム論としてこの考え方は100年はもったと思うんですけど。もう時代は変わっちゃってますから、世の中ね、射精やオルガスムスの阿片窟みたいになっちゃってて。

しかもそれが、消費行動――エロいものってことだけじゃなくて、あと風俗とかそういうことじゃなくて――アイドルを追いかけたりするようなことにも繋がってますし。あと無消費行動ね、まったく反転した、私が昔「ゼロ円ファン」って言葉を作りましたけど、ゼロ円でファンができるというような。つまり結局ね、資本主義社会のなかで、エロティックである、エロティカであることに、なんかね、罪悪感や無力感が残ってしまうわけ。

健全なエロティシズムっていうのは、やっぱ、生きる歓び、ね。まあなんていうんですかね、私は幸いにして音楽っていう仕事があって、まあ呪われてるともいえるんですけど。演奏している間はずっとトランスしてるから、とんでもなくエロい。演奏しているあいだは全員に性欲感じますからね。ただ、演奏しているからできないわけですよ。ステージ上でおっぱじまっちゃったら大変ですからね、違うショーになっちゃいますから、だからやらないんだけど。

まあ世の中音楽やったり聴いたりしないって方もおりますわな。そういう方がこの番組聴いてるかどうかよくわかりませんけれども、まあ聴いていたとして。もう、さすがに聴いてる方はお察しだと思いますけど、こうやって喋ってるのも音楽と一緒なんです、私。演奏しているのと変わらないんですよね。
まあそれはともかく。

あのね、いきなりですけど、人間関係のなかでもっともヘルシーでエロティックな関係というのは、
「お互いがセックスしたいってわかってるんだけど、絶対にしない」
関係だと思うんですよ。一生しないんですよ。私これが、男女の友情の定義でもいいと思います。21世紀は。

やっちゃったらね、それはつまりバタイユのエロティシズムで、破っちゃってるわけだから、禁止を。そのときはすげえ興奮すると思うんですけど、やった瞬間から「黄金」はもう「クソ」に変わり始めてるの。あとはもうクソまみれですよ。バタイユだけに、っていうわけじゃないですけどね。

で、今って、「何かがやりたいけどできない」っていうことが、すごく屈辱的で怨念的に響いちゃう時代だと思うんですね。幼稚っていうかね。欲しいオモチャがあるのに買ってもらえない的なさ。偉い人が悪い的なね。偉い人なんて悪いに決まってるじゃんね。

でもまあ、そういうのと全然違うんですよ。
「俺たちは誤解や勘違いではなく、はっきりやりたいと思ってる、言葉にしてないけど。だけどやらない。なぜなら友だちだから。」
っていう時間をね、極端にいうと楽しむわけ、過ごすっていうか。私がいってるのは、あれじゃないですよ、ピューリタニズム的なプラトニックラブ崇拝とかね、あるいはマゾヒズムとかね、禁欲的な。恋愛とも、準恋愛とも違うの。

人間にはね、「抑止力」っていうものが備わっているんですよ。これがないとね、子どもは全員父親を殺しちゃうわけね。父親に殺意を持つ、でも殺せない。ここに屈辱や無力感だけじゃない、抑止力の効果を学ぶ、これが「健全に発達する」ってことなの。順当な発達の流れですよ、これはね。そういうところから始まって、抑止力のあらゆる力があらゆる場所に広がっているわけ。

ポケットのなかに鉛筆一本あって、飲み屋で絡まれたら、殺人なんて簡単なのよ。ライブ中に「アンプのヴォリューム最大にしたいな」で、「PAぶっ壊したいな」って、やるのは簡単なのよ。ツマミをこうやってやるだけだから。でもやらないわけ。会社に行くと、何となく気になる子がいて、テメエには女房子どもがいて。以下同文なのよ。簡単なことなわけ。でも、やらないわけ。

世界は抑止力によって、すげえ「いい感じ」になってるんですよ。そういうものがね、やせ我慢とか、抑圧とか、欲しいオモチャが手に入らない。って感覚で捉えられちゃうと、要するに抑止力っていう素晴らしい能力−―人間はね、頭のおかしくなった猿なわけで、地球からみたらろくでもない生き物なんですけど、抑止力っていうのは私、ちょっといいな、と思うんです。けっこう、人類ってのも捨てたもんじゃねえな、っていう能力のひとつだと思うんです。

江戸時代はこれを「粋である」といったと思うのね。まあ、「大人って何ですか?」ってよく訊かれるんですよ。52歳にもなると。私なんか、聴いててわかると思いますけど「弟キャラ」のガキですけどね。だから私なんかに訊いてもしょうがないと思うんですけど、ジャズなんかやってると「大人って何ですか?」ってよくいわれますね、
「抑止力をエレガントに扱えて愉しめる人」
だと思います。大人っていうのは。

恋愛は狂おしいですよね。性愛が入ってくるともっと狂おしくなったり、逆に一気に冷めちゃったりしますけど。恋愛でも性愛でもない、抑止された状態っていうのはね、音楽には描かれる――音楽は万能だから、何でも描かれてると思うの。だからバート・バカラックっていうね。そういう人にはバート・バカラックっていう、そういう流れだったんですけどね。まあとにかくあの日は(林みなほさんの)レズ疑惑を晴らさないといけなかったんで、ここら辺の話が全カットになったんですよね。

まあ言葉でいってもややこしいばかりです。音楽でいきましょう、とにかくね。全ての、言い出せない人、友情や恋や性欲が、友情か恋か性欲かわかんなくなってきちゃった、入ってきちゃって、この関係に。どうしようって動揺してる人、いっぱいいると思うんですよ。その人にね、聴いていただきたいです、この曲を。

甘いお酒かなんかを飲んじゃって、この曲を聴いてると。そしたらちょっとなんか、別に何の意味もないんだけど、自然と身体が踊っちゃった、と。そしたら、そのお相手の人ね、お友だちなんだけど、気持ちがひょっとしたら一線を越えたかもしれないと思われてる、その相手の方も、なんか踊ってた。結局二人でなんか踊っちゃった、一曲。別にそれで何か触ったとかじゃなくてですよ。同じ曲で踊っちゃった、と。そこまで。そこまでで、十分、セクシーで、充実してて、幸せ。これが、我々のもっともヘルシーなピークなんだ。っていうふうに思えたらいいですよね。

そういう願いを込めて、まあバカラックは贈っちゃたんで。バカラックは切なめの方だから、もうちょっと開きめの方。まあなんとですね、どんな曲かといったら、ラスタファリアンですよ。この番組でも何度かお世話になっているイギリスのSOUL JAZZ RECORDがコンピレーションした、「Rastafari : The Dreads Enter Babylon 1955 to 83」。55年から83年の、これはラヴァーズ(・ロック)みたいなチャラいやつじゃなくて、ガチのラスタファリアンによる音楽なんですけれども。ガチなだけに、今いったような意味で聴いていただきたいですね。

というわけで、Ashanti Roy、その道では有名な方の曲です。「Hail The Words Of Jah」。「Jah(ジャー)」っていうのは「ジャーラスタファーライ」、ラスタファリアンの挨拶の最初につく言葉ですね。わたしも意味がわからないですけれども、ラスタファリアンの間ではよく使われる言葉です。

Rastafari The Dreads Enter Babylon 1955-83

Rastafari The Dreads Enter Babylon 1955-83