ヤング・ジェネレーション(断片2)

「はじめぇ、父ちゃんにちょうだいそれ。」
 朔の父親の声がする。
「だめー。」
「だめ?」
「は・っ・ちゃ・ん・の。」
「はっちゃんのか。おいしいそれ?」
「おぃうぃしぃ、よぉ。
 だめぇー。だめぇー。だめぇー。」
 繰り返す。歌うように繰り返す朔。カチ、カチ、カチ、カチ、ハザードランプが点滅する音が聴こえる。ハザードランプが点滅する音ではなくて、ハザードランプが点滅するのに合わせてそれらしい音を付けているのかもしれない。それがわたしたちの住む世界であり、朔の住む世界。助手席側の後部座席に座る朔、そこへわたしが朔の席の窓に見切れて、リアから運転席の後ろの席へ回り込む。わたしがドアを開けるなり、
「ピンバッジ買ってくれた?」と夫。
「ピンバッジ? ピンバッジもいる?」わたしの持つ白いビニール袋には、さっき買った携帯ストラップが入っている。朔の好きな特急「新型くろしお」の携帯ストラップ。

 なっちゃんのお店。食事を終えて、なっちゃんの貸してくれた色鉛筆と落書き帳にも飽きて、造花をくるくる廻しながら朔が歌っている。
「ぼっちゃんいっしょにあそびましょ。」
「はっちゃんいっしょにあそびましょ。」
 夫が嬉しそうに猫なで声で「あそびましょ。」をユニゾンする。
 それで夫が「どんぐりころころ」と先を促すようにいうと、先に言うなとばかりにむきになる表情を作ってみせて
「お池にはまって!」
 と強い口調で繰り出す。両手では造花を弄び、造花の根元はキャップになっていて外すとボールペンのペン先が出てくる。尖った先を満足そうに眺めながら、色鉛筆の入った筒に生け花のように造花を突き刺す。花びらは紫色だ。さらに机の上のきのこの形をしたボールペンも色鉛筆の山へ。落書き帳の上に散らばった色鉛筆を次々に山に刺していくと、落書き帳の地が見えてきてそこには、夫の描いた朔の似顔絵が出てくる。そこにいる朔と同じ白地に紺のボーダーのロングTシャツ、紺のダウンベスト。左胸に錨のアップリケ。

 背後から恐る恐る近づいて、両手を伸ばしてみるが、するするっとマーラーは逃げていく。また追いかけて近づいて、また逃げられる。動物園の「ふれあい広場」という放し飼いスペースで、朔はマーラーという小型犬くらいの動物を追いかけているが、マーラーは二歳児よりずっと早く走る。朔は両手にさっき買った餌を握りしめているが、三連休のど真ん中の人出で、餌を貰いすぎておなかいっぱいのマーラーにはありがた迷惑でしかない。
 あきらめたようにわたしのところへ戻ってきた朔はわたしの手をとってまた、逃げおおせて立ち止まったマーラーの方へ駆け出す。そこへ前後左右から子どもたちがマーラーへ突撃するが、マーラーはいともたやすく包囲網をかいくぐり去っていく。

 見ていると朔はわたしの見える範囲を走っていって、見えないところへ抜けていくようには見えない。
 片手に鋤、片手に鍬を持って庭の砂利を耕すようなしぐさ。本人としては、庭に線路を引いているらしい。
 食卓では大皿の上に並べられた巻き寿司をほどき、くるまれていた魚肉ソーセージを皿の上の別の巻き寿司の上に重ねながら言う。
「じりじりじりって、焼いているんやで。
 もうすぐ出来るからな。
 食べるか?
 おいしいで。
 ハジメの作ったソーセージのやで。おいしいんやで。」
 玄関の上がりかまちに並べてあるバラの鉢植えにはネームプレートが立てられ「ママのバラ」「ひーちゃんのバラ」「タンタンのバラ」などと書かれている。ホームセンターの園芸コーナーで朔が選んだものだ。夫のバラはない。「おじいちゃんのバラ」はない。男性のバラはない。そういえばわたしやわたしの姉の「ひーちゃん」、わたしの妹の「タンタン」のキスは喜んで受けるが、夫のキスからは逃げるし、万が一ほっぺにチューされると、袖ですぐさま拭う。
 夫が杵を振りかぶる足許に、しがみついてる。夫は逆手というのか、テニスのバックハンドの要領で杵を握っている。右手を上にして、こぶしひとつぶん空けて、左手を添え、左上に振りかぶる。朔はその勢いに気圧されるように両手で頭を覆っていたが、一息ついたところで自分から杵を握りにいった。夫の友人の家で、知らない大人たちに囲まれて小さくなっていた朔だが、初めて見る餅つきの魅力に抗えない、とばかりに重たい杵を振りかぶろうとする。

 隣の席では夫が眠っていて、わたしの膝のうえでは息子も眠りについた。滅多にないことだ。夜は息子はなかなか眠らない。21時頃二階の寝室に上がり、絵本を読むか自分の写ったアルバムを小一時間は見るかして、わたしの布団のなかに入っても、先に眠ってしまうのはわたしの方だ。夜中に夫が帰ってきてわたしを起こしてもわたしは起きないこともあるから、寝ている二人をわたしが傍らで眺めている、なんてことはめったに起こらない。
 年は暮れて大晦日赤穂浪士の討ち入りの日に三歳になった息子を連れて帰る飛行機のなか。空港までの道のりと、乗る直前のロビーではひどくはしゃいでいた息子も、飛行機が、とくにその離着陸が怖い夫も、飛行機が飛び上がるときに目をつぶってそのまま寝てしまった。
 こんな時間をどう過ごしていいかわたしは知らない。三十数年の人生でそういうことを教わる機会は少ない。今わたしの引き出しのなかに見つけられないくらいには。「荷物は前の座席の下に」あるから、膝のうえの息子をどけてかばんのなかから本を取るなんてできない。夫のように「活字中毒」ではないわたしは、いつも本を持ち歩いているわけじゃないし、今読みたいわけじゃない。手持ちぶさたの時間をやり過ごすことができるくらいには大人になった。
 今の息子はそうはいかないみたいで、「今やりたいこと」は今やりたいのだ。晩ごはんの用意ができても、「今レゴブロック」をやっている。家を作っている。家に帰れば電車のDVDがあるけれど、書店にいる今欲しいのは、目の前の書棚にあるこの本だ。みかんを一個食べたらもう一個食べたいし、その一個を食べたらさらにもう一個。バナナだって同じだ。バナナを一日に三本食べてから、しばらくのあいだバナナを食べなくなった。この頃はまた食べている。わたしは物心ついてから、バナナは好きじゃなくなって食べなくなったけど、息子を見ていると「物心」なんてよくわからなくなる。キャビンアテンダントがジュースのサービスに廻ってきた。寝ている息子の分と、夫の分と、わたしの分。アップルジュースを三つ。人の気持ちはわからないが、こういうとき、夫や息子が何を所望するかはよくわかる。それくらいには大人になったが、ならば息子だってそれくらいは大人だったりもする。わたしはまだ大人になったとも言い切れなくて、結局こうして携帯電話に収められた息子の動画を眺めて過ごしている。