美しい時間/夏の金魚

 サンダルは脱ぎやすい。履きやすいのもいい。けれど、クロックス以来の主流となっている全て樹脂でできたサンダルは、つま先が地面に引っ掛かりやすいのが難点だ。わたしがすり足で歩くからかもしれない。
 わたし自身のことをいえばそれは、あえてする心配だけれど、夏になっていつもクロックスを履いている息子にそれを適用すると、とても心配だ。そのままの意味で心配だ。
 それでなくても子どもはよく転ぶ。顔面から転んでその地面に、鋭く尖った五寸釘でも垂直にささっていて、その上に息子の……というようなしたくもない想像を親であるわたしはするものだ。それもまた、ナイーヴないらぬ心配であるものの、そういう心配はコントロールできるものではない。
 夏といえば夏祭りで、夏祭りといえばテキ屋で、金魚すくいがその花形だ。金魚すくいが子どもは大好きだ。こういうことは思い込みや刷り込みに過ぎないが、それでもやはりわたしの息子も金魚が好きで、金魚すくいが好きみたいだ。息子の祖父・祖母はこの夏、夏祭りに行くたびに息子に金魚すくいをさせてくれる。息子はあの、破れやすい和紙のようなものを貼った金魚をすくう道具で金魚をすくおうとする。
 しかし紙は破れやすい紙なので、二歳児の雑な扱いですぐに紙は破れる。
 夏祭りは夜のイベント。自宅でならもうすぐに寝る時間で、眠たさがピークになると息子は気に入らないことがあるととたんにかんしゃくを起こすが、ハレの場の夏祭りでは息子もこれしきでは怒らない。
「人ごみで緊張しているだけだよ。」
 と夫はいう。たしかにそれもあるだろう。金魚すくいではすくえなくても金魚をくれることになっている。決まって二匹。 息子は、
「白いの! とれ!」
 という。息子の発語は、「か行」がすべて「た行」になってしまうから、「とれ」は「これ」という意味で、「白い」というのは「黒い」ことを「白い」といってしまうことがあって、今息子が欲しいのは、黒い金魚で、指さした「とれ」は出目金だった。
 しかし仕入れ値が他より高いのか、
「出目金はだめなのよ。」
 とテキ屋のおばさんに言われ、おばさんが選んだのは紅白の各一匹だった。息子は
「白いの欲しかったなあ。」
 といった。
「明日は白いのにする。」
 といった。同じ黒でもきちんと「黒」ということもあるし、「明日」というのは息子にとって文字通り明日ののこともあれば「今度」という意味にもなる。いつも一緒にいるわたしたち家族には、その微妙なニュアンスは意識せずとも伝わる、ということは不思議でも何でもなく、当たりまえのことだということは、当事者であるわたしにとってはたしかに、当たりまえのことだが、わたしとしても少し俯瞰してみれば、不思議だった。