くものうえでさんぽ。

 『百万円と苦虫女』をDVDで。今回はポータブルDVDの7インチで寝床で妻と二人で。安物なので画質は悪いです。
 『百万円と苦虫女』は食わず嫌いというか、こういう言い方で伝わるかわかんないけど、それなりに好きだろうことが(観る前から)わかっているからもういいや、というか、よくできた日本映画にはもうあまり期待していない。例えば西川美和の『ゆれる』のような映画はよくできていることはわかっても面白いと思えなくなっている。
 観て良かったです。お話のレベルでとても熱い映画で、見た目に反してとても動きがある。村上春樹の小説じゃないけど悪意に満ちた周囲の反応により主人公の蒼井優は振り回され、受動的に見えるが強い意志で状況を打開していく彼女の姿にごく単純に元気が出る。
 映画にとってストーリーは構成要素のごく一部で、音楽でいったらメロディとかボーカルとかあるいは歌詞くらいのもので、その他の膨大な要素の積み重なりで映画はできていて、画面の外には映画の外の世界もあれば、映画のなかの世界の続きもあって、この映画のコメンタリーのなかで語られていたように、桃の村のおばあちゃん役の佐々木すみ江が画面に見えないところで芝居をしているようなことで、映画は世界に開かれている。
 音だけでも映像だけでも楽しいのがいい映画で、ストーリーを無視しても例えば画面のなかを左から右に人が歩いていったり、奥へ奥へ物が転がってきたり、遠くから音が聞こえてくること自体が面白い。それを一つひとつ制作者は作っている。
 作っていることと関係なく映画を作る前からここにある風景はある。映らなくていいものも映ったり、意図していないことも映っている。どんなに制作者が画面をコントロールしても映っている。デジタルで不要な(と制作者が考える)要素を落としていくことはできる。
 映画でいつも不満なことは、主人公のお話の何らかの落としどころで映画が終わることで、90分とか120分とかという長さが何らかの落としどころを自然に用意してくれるのかも知れない。わたしはちゃんと映画を作ったことがないから、
「そんなに簡単にいうなよ。」
 と作る人に怒られるかもしれないけど、ここに出てくるこの人たちと関係ないところでも世界が回ってることを感じさせてくれるものを観たい。それが単純に三時間も四時間も続く映画だったり、ストーリーとしてまとまっていない断片の積み重ねの映画ということでもなくて、90分なり120分なりの(営業的な)制約のなかで作られることも映画にとっての大切な要素なのかもしれない。
 映画なんてそんなに観ないので、一般論とか映画論とか映画観というようなものではありません。いちばん印象的だったシーンは海辺で蒼井優が海を向いてくーっと腕を上げて伸びをするところで、そういうワンショットを観ることができただけで
「これ観てよかったなあ。」
 と思えることも、わたしにとっての映画です。この文章の「映画」は、他の何に読み替えてもいいのですけれど。「野グソ」とか。
 実際に「野グソ」に読み替えたのが、わたしにとってのオールタイムベスト絵本、『がまんだがまんだうんちっち』です。