東京日和(その一)。

 土曜日が学生時代からの友人の結婚式で、東京へ。結婚式は六本木ヒルズで、次の日は神保町で映画を見て日本に帰ってきた弟と会食し、本屋を冷やかして帰ってきた。
 今年に入って同級生の結婚式は三人目で、わたしたちは三十三歳で、わたしたちにとっての「結婚適齢期」ということなのだろうか。わたしは二十九歳のときに結婚しましたが。
 最近の(いつからそうなのか、ずっと昔からなのか知らないけど)結婚式はBGMを自分たちで選ぶことになっていて、けれど今年行った結婚式は皆、新郎は音楽を選んでいないみたいだった(いや、一人は違うかな)。
 ブログの文章は公開するために書いているからさくさく書いてさくさくアップロードしなければならないが、しかしそれはそう決められたわけではない。こういうものはわたしはわたしのために書くのだから、書いていて面白くなければ途中でやめればいいし、書いたものをアップロードしなくてもいい。
 わたしたちの結婚式では音楽は全部わたし一人で考えたけれど、それは単にわたしの音楽の趣味(の一部)が妻と同じだからできるのかもしれないが、突飛なものではないけれど一般的なものでもない。
 高校生のわたしにとっては他の誰とも同じように音楽は大切なもので、他の誰にもあることのように、音楽のためにわたしは生きていたといってもよかった。「その曲を明日も聴くために」生きていた。いつ死んでも構わないとも思っていた。(もちろん、死ぬ元気はなかった。)
 そんなふうで、だから音楽を自分で選ぶのは当たり前でかつ譲れないことのひとつだったが、しかし選んだときにはわたしはわたしの人生で最も音楽を聴いていなかったので、選んだのはわたしが音楽を切実に聴いていた頃の音楽だった。
 今はまた音楽を楽しんでいるが、とてもじゃないがあの頃のようには聴けない。
 弟と会う前には映画を見た。『おじいさんと草原の小学校』という。高校生の頃の自分なら、こんなタイトルのお勉強みたいな映画なんてファック・ユー、犬に食われろ!と思うだろう。わたしは音楽を注意深く聴こうと思った。でも映画は半分は音で半分は動く絵でも、動く絵の方を見てしまうもので、BGMというくらいで音楽といっても人の会話と話す人物は口の動きと身振りで完璧なまでにシンクロしているから(当たり前の話ですが)、音楽はどうしても聞き流してしまう。
 いい音楽、
 と思っていればなおさらだ。いつのまにか音も話も進んでいってしまっている。だから全てを楽しむには映画は何度も見なきゃならないけど、観客にとってはそうではなくても登場人物にとっては映画のなかの出来事は彼らの人生にとって一回きりの出来事である。それはゆめゆめ忘れてはならない。重要なことだ。