この社会に私たちは責任を負う必要がない!

 わたしは毎日のように色々なものを充電している。おかしいと思うが止められない。
 以下はわたしのためのメモですが、少しでも気になったら読んだり見たりしてみてください。とくにわたしの友人たちに向けて。
 

 経済を成長させるためにもともと望んでいたわけではない利便性を一方的に押しつけ、典型的には電力の需要を増やさせる。それによって生産と消費を拡大させる。私たちが「テクノロジーの恩恵にあずかっている」と思っているものは、いまでは一方的に与えられたエセの欲望で、これらを私たちはそもそも欲望していない。欲望を装った、外側にある経済活動(工学)の産物なのだから、この「欲望」に対して私たちは責任を持つ必要がない。
「そんなのは居直りだ。消費者が望まなかったために消えていった新製品もいっぱいある。消費者にそれを持たない意志さえあればいいことじゃないか。」と、もしやつらが言うのなら、
「成長モデルでない経済活動を考えるのがお前らの仕事だろ。」と言い返すことにしよう。
 被災地に目もくれず政局に明け暮れる政治家たちを辞めさせることができないのは、日本人が知的怠慢だからでなく、社会そのものと関係ないところで政治が動くシステムになっているからだ。社会全体の意志を反映しないシステムをやつらが作り上げたのだ。だから、
原発事故や震災への政府の対応のひどさや計画停電のことに文句を言っても、そういう政府を選挙で選んできたのは国民全員だし、計画停電が必要になるほど(=原発による電力がなければまかないきれないほど)日頃から電気をジャブジャブ使ってきたのも国民全員だ。」
 という、こっちを責め、内省を促す類の言説はまったく当たらない。だいたい内省に値するだけの主体性をもう私たちは持っていない。こっちの内省を促すことでやつらは私たちにまだ主体性があるかのような幻想を持たせつづけ、内省させることで私たちがアクションを起こすことを抑えている。私たちは自分を責めるのをやめて、何よりもまず主体性が奪われていることに気づくべきだ。
 この社会に私たちは責任を負う必要がない! そう考えればアクションはずっと起こしやすい。

保坂和志のエッセイ「寝言戯言 19」(「ちくま」2011年8月号)より。全文は下記。
http://www.k-hosaka.com/nonbook/chikuma19.htmlより


  • あと、上とは関係ないが、土日は東京で友人の結婚式。時間があればこれ観たい。

「おじいさんと草原の小学校」@岩波ホール
http://www.iwanami-hall.com/contents/next/about.html