下僕たちの朝の宴。
わたしにはわたしから話したいことは何もない。
自分の立場や意見を主張したいと思わない。
わたしはわたしにとって、何が嫌で、何が好きか、それがわたしのことだからといってはっきりしているとは言い切れない。けれど今起こっていることよりも、今それぞれの立場でそれぞれの人たちが少しずつ主張し、意見していることに、わたしは少しずつ違和感がある。
わたしが(その)人ではないからというのは簡単だ。けれどどうして皆、自分の考えを、さも自分の考えのように口にできるのか? 自分の口にしている言葉を、自分の言葉のように口にできるのか。わたしはあまりよくわからない。
あなたがそう、今話していることは、あなたはこんなことが起こる以前から考えていましたか? こんなことがあったから、出来事に対するリアクションとして人は物を考え行動するのだから、それでいいじゃないか、というのは半分正しくて半分間違っている。雑な言い方ですが。
何が起ころうと変わらない考えが正しいとわたしは言っているわけじゃない。
何かに対応して考えが変化したりすることを否定するわけじゃない。
何かが起こったことを何もなかったように振る舞えるからといってそれが間違っているわけでもない。
でも何かが起こったから話されている言葉は、どのように好意的に考えてもその時だけのものだ。ほとんど信用するに値しない。そして今、わたしが訊かされているのはほとんどがそのような言葉ばかり。気がついたらわたしもそういう言葉を口にしているかもしれない。
わたしがぞっとするのはそのようなときだ。
そのことに人が無自覚でいられる限り、広い門は開かれないと思う。
射幸心、という言葉がある。わたしはわたしの投じた労力と無関係にリターンを望むことがある。予期せぬ幸運に喜ぶことがある。沢木耕太郎が『破れざる者たち』で描いた榎本喜八のように、ラッキーなヒットを悔しがるストイックさはわたしにはない。
しかしわたしは何もしないとき、やる気がなくてだらだらと家にいるとき、少しだけ体調が優れなくてじっとしているとき、そんなときには危うい感情を抑えることができる。高揚しているときの方が危ない。しかしじっとしていることはいつも評価されない。人にもされないし、自分にもされない。
後退することがなぜおかしいのか。
前進することはそれだけで正しいと言えるのか。
自分の過てることを知り、それを静かに告白できますか。わたしはそれを誰かに問うのではなく、わたしに問う。人の誤りを正すことが正義ではない。
ただ善行を積めばいいわけじゃない。悪行をしなければいいのでもない。
さあ、わたしたちはやろう!
悶々とするのだ。
そう、悶々と。
もやもやするときは、もやもやしよう。
時々は、息を抜こう。
でも今は、悶々とすることが、もやもやする気持ちがたくさんある。
思う存分それを味わうがよい。わたしたちよ。