ミュージック・フロム・ハッピー・ヴァレー。

 3月11日の翌日の3月12日は土曜日で、DJとして参加しているフィッシュマンズナイト大阪の開催のため大阪に行った。電車は止まっていて高速バスに乗った。大阪には大きな混乱は見られなかったけれど、夕方、駅前で福島原発の最初の爆発を伝える号外が配られて動揺した。
 イベントの前に少し時間があり、映画館でアッバス・キアロスタミ『トスカーナの贋作』を観た。あらかじめ観たかったわけではなくてたまたま時間が合ったので。妻などにKYと言われることの多いわたしとしては、男性として身につまされるようなところもあって、こういうご時世ではそういう種類の人間でなくても、つい身に余るサイズで物事や世のなかを見てしまいがちになるものですが、一つひとつの関係の充実こそが重要なんだろう。
 関西圏でもほとんどのイベントが中止となった当日は、やはり例年より人の入りは少なかったけど、充実した楽しい夜になった。メンバーの提案と総意で、経費を除いたこれまでの収益を東日本大震災のため寄付することにした。参加していただいたみなさんありがとうございました。
 地震の前から今も引き続き、青空文庫でゆっくりと、片岡義男『波乗りの島』を読んでいる。ハワイのサーファーたちをめぐるストーリーで、サーファーはビッグウェーブに呑まれて命を落としたり、火山の噴火で家や街を失ったりする。フィクションと現実がわたしが読むという行為のあいだで奇妙に重なることに、ちょっと恐怖感(たぶん、このことばがいちばん合う)を覚える。
 そのあいだも堀江敏幸『おばらぱん』を読んだり、佐藤泰志海炭市叙景』の読みさしていた残りを読んだり、佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』を読んだりする。『切りとれ、あの祈る手を』に書かれていた、トルストイやドフトエスフキーが書いていた時代のロシアは、全人口の90〜95パーセントが全文盲であった、という話に驚いた。ほとんど誰も読めないのに、あれだけの小説を書いていたのだという。
 3連休の直前から息子がもらってきたらしいノロウイルスが家族じゅうに蔓延し、苦しんだ。体調を崩した息子はいつになくおとなしく元気がなく、どうしたって「被災地でもこういう子供が……」というふうに想像してしまう。
 いまは長いものを読むつもりで何度もとちゅうまで読んでいる、ガルシア・マルケス百年の孤独』を読んでいる。『切りとれ、あの祈る手を』にあったように、読むということは恐ろしいことで、読む自分は発狂するかもしれないし、世のなかはひっくり返るかもしれない。佐々木中によれば、読むことによって情報化革命が800年前のヨーロッパで起こり、いまの世のなかはそれを前提に成り立っている。革命を起こそうという気分にまでは今はなれないけれど、せめて孫の代くらいまでは、リアルな想像ができるようになるくらいは、頭をクリアーに、あるいはぐちゃぐちゃに、したいなあ。
 息子はまど・みちおの詩集をさかさまにして読んでいます。読んでないけど、読んでいるみたいに見えます。それが読むということなのでしょう。