ろっくんろおる。

 まじめなことをまじめに考えるのは嫌いじゃないけど、でもそれだけではたぶんだめだと思う。自分がなにかまじめにものを考えていると、
 「わたしが主体的にこう考えたい、と考えていることも、当局?とか、世の中のしくみ?とか、世間体?とか、なにかべつのものに「そういうふうに考えるように仕組まされている」のではないのか?」
 ということはけっこういつも思っている。たとえそれが人のためになることでも、人に喜ばれることであったとしても、わたしがそのように行動することは、わたしがそうしたいと望んだように見えて、世のなかで力を持っただれかが、都合よく世のなかを動かしていくために、わたしに、わたしたちにそうさせているのではないか、と考えている。
 とはいえ宗教とかスピリチュアルなんとか、という話でもない。あえてわたしはいま、具体的な事柄に触れずに抽象的に話を進めているけれど、わたしの感触はとても具体的なものなのです。そういうふうに考えるわたしの性向によって、わたしは音楽や小説や映画なしに生きられないのだと思う。
 自分の心にクリアカットに思い浮かべることのできるわたしの「夢」「したいこと」は家族のことを措いてはひとつしかないから、それがために必死に、血眼になるべきなのだろうけれどわたしはそういうふうには行動していない。
 「急いては事を仕損じる。」
 ことわざはある面では真実だから、正しいのだけれど、しかしそれに反する事実はいくらでも起こりうるし実際に起こっているから、うそじゃないかというのは簡単だが、そういう言いかたでことわざを否定するのは間違っている。でもそのことによって、ことわざの絶対的な正しさが証明されるということではない。……このことは、いままでの話と関係がないわけでもなくて、わたしはわたしがわたしの考えによって考え行動していることによってすなわち、わたしにとっての正しさを担保するとは思っていない、ということで、たとえ一瞬の感情で我を通そうとしてもその瞬間に、間違っているらしいことに気がついている。
 それを正せないのはわたしの弱さだからわたしの問題だが、しかし正しさを「正しいがゆえに正しい、間違っていない。」と誤解している人が多くて、そのことでわたしはいつも腹を立てている。わたしの地元のことばで言うと「腹を掻いている」。
 罪を犯したものをその罪の重さによって、あるいはその罪を犯すに至る思慮や分別の足りない行動によって見下すものを、わたしは自戒をこめて、そのものたち、わたしたちこそ罪深いと思う。冷笑的な人間がわたしはこの世でもっとも嫌いだが、しかしわたしが会話の流れで、その場の雰囲気に流されて、シニカルな物言いをしていることはたくさんある。
 正しいことだけをして生きていくことはできない。ちゃんとしていることはいろいろな場面で必要だが、あなたやわたしが「ちゃんとしていること」が、たとえば為政者によってものすごく都合がよい、ということは往々にしてある。為政者がすばらしい人物で、「正しいこと」だけをやているよう見えても、しかしわたしには知れないそういうものたちにとって、わたしの感情や行動が利用されていると思うと反発したくなったりする気持ちはたぶん、一生失うことはないと思う。
 だからできるだけだらだらしたい。ちゃんとだらだらしている人を見るとかっこいいと思う。
 「バラカン・モーニング」はザ・バンドの「LIFE IS A CARNIVAL」がよかったです。