ゴーホーム。

 何をやっていても「早く家に帰りたい」と思う。そういうこどもであり、大人だった(今も、そういう部分がなくはない)。つまらないこともある。楽しいこともある。外を走り回って時間を忘れて遊ぶ。気のおけない仲間との楽しい飲み会。大好きな女の子とのデート。家に帰っても何があるわけじゃない。それでも家に帰りたいと思ったのはなぜなのか? 《カサカサッと窓ガラスを打つ音がして、窓を見やった。また雪が降りだしている。眠りに落ちつつ見つめると、ひらひら舞う銀色と黒の雪が、灯火の中を斜めに降り落ちる。自分も西へ向う旅に出る時が来たのだ。そう、新聞の伝えるとおりだ。雪はアイルランド全土に降っている。暗い中央平原のすみずみまで、立木のない丘陵に舞い降り、アレンの沼地にそっと舞い降り、もっと西方、暗く逆立つシャノン川の波の上にそっと舞い降りている。マイケル・フェアリーの埋葬されている侘しい丘上の教会墓地のすみずみにも舞い降りている。歪んだ十字架や墓石の上に、小さな門の槍の上に、実のない荊の上に、ひらひら舞い落ちては厚く積っている。雪がかすかに音立てて宇宙の彼方から舞い降り、生けるものと死せるものの上にあまねく、そのすべての最期の降下のごとく、かすかに音立てて降り落ちるのを聞きながら、彼の魂はゆっくりと感覚を失っていた。》*1家に帰るとさっきまでの喧噪を「消化」するための時間を要する。つまり、二時間は寝られない。だから眠るまえに本を読むのかもしれない。たとえば書き出しはこんなふうだ。《火星人がやってくることにたいして、地球の人間に心構えができていなかったとすれば、それは地球人の側に罪がある。》*2外に出て行きたくないとき、人に会いたくないときに読みたくなるのはエッセイや批評じゃなくて小説だろう。でも小説を読みたいのは、その読んだ内容を人に話したいわけじゃなくても、私が社会性を持った人間であり(荒川修作のいうところの「間」(あいだ)の「人」)、それを読んだあと、というかそのあとの人生のなかでずっと、人と会って話したり人と人との間で生活していくからだろう。

*1:ジョイス「死せるものたち」(柳瀬尚紀訳『ダブリナーズ』新潮文庫所収)

*2:フレドリック・ブラウン火星人ゴーホーム』(稲葉明雄訳、ハヤカワ文庫)