世紀の発見

 友人の日記があまりに面白くて、本人の許可を得て転載することにします。少し似たようなことをいつか考えたことがあるような気がするけれど、ぼくは考えもしなかったことも書いてある。別の親しい友人はこれを読んでこう言っていました。「みんなへの手紙だと思うとすごく納得します。しかものぞいた人だけに届く奥ゆかしさ! だからみんな書いてるんだ、と初めて思えたくらいの発見」。

 手紙(メール)を書きたいという欲求は不自然なものかもしれないと思う。というかそういうふうに仮定してみることもできる。今日はこれを書きながらも、親しい友人や直接会ったことのないひとなど、何人かのひとが頭に浮かびながら、メールを書きたいな、と思っています。しかし今日はとりわけ「これを伝えたい」ということがあるわけではなく、それでもなお、何かを文章として相手に届けたい、と思うのはなぜなのでしょうか?

 ある年配のミュージシャンがインタビューで、「自分から用のある人はひとりもいない」と答えているのを読んだことがあります。ひょっとしたらそれがいちばん自然な状態ではないのだろうか。根拠はないし、わたしの生活実感とも異なるのだけれど、そう考えてみることで、腑に落ちる心の状態というものがある気がするのです。

 古代ギリシャストア学派だったかな(ゼノンとか)、あらゆる感情から開放された状態を魂の平安と説く思想があって、そういうのは色々な宗教でもあるけれど、信仰のないわたしには、実感としてはわからない。つまりそれは外からの刺激のぜんぜんない状態のことであって、喜怒哀楽のない状態というのが生きるに値するとはやっぱり思えない。にもかかわらず、メールを書きたい、という気持ちが「走っている」と感じるとき、いまみたいにそれを抑える気持ちが自然と働くのです。抑えたい、のではなく、「自然と」。

 そうしてメールを書かなかった場合、「そう思ったわたしの気持ち」は相手に届くことがない。
 しかしそれを届くのではないか、わたしがこうして空間や時間の遠く離れた誰それのことを思っていることが、遠く離れた相手に届いてないとはいえないのではないか、ふつうの意味では届かないのかもしれないが、それを「届く」といえる状態ないしは考え方/思考の枠組みみたいなものがあるのではないか、そんなことを小説の言葉として残していたのがチェーホフで、そのことをわたしも小説で考えてみようとした――そんなことをわたしの好きな小説家の方がおっしゃっていました。
 でもいまのところ(?)ふつうの意味では届かないのであって、伝えたい欲求を抑えたわたしの心は孤独のうちに留まることになる。

 それでもう少し、具体的な話したいこと、伝えたいことがあるときを待って、もう少し気軽な調子で手紙やメールを書くのですが、それでも抑えたわたしの気持ちはわたしの心の内側に畳み込まれている。わたしたちの(少なくともわたしの)感情がときとして昂ぶり、ときとして沈み込んでしまうのは、そうして畳み込まれた感情が、ポップアップしてしまうからじゃないのかな。それはいいことなのかよくないことなのか。

  波風たてられること
  きらう人 ばかりで

  でも 君はそれでいいの?

 そう歌うポップソングがあって、わたしも好きなのですが、

  サヨナラから はじまることが
  たくさん あるんだよ

 この歌でもそう続けて歌われるように、表面的な、そうであるがゆえに「強い」感情を畳み込んだことによって生まれる何かを、きちんと育んでみたいという気持ちがわたしにはあります。
 唐突ですが、ホッブスやルソーなどの社会契約論者は(よく知らないのですが)、人間の「自然状態」について考えていましたよね。社会契約における自然状態は、現に存在する政治体が人民を支配していることの根拠付けをするために考え出されたものだったと思うのですが(すなわち、自由を謳歌しているように見える自然状態のままでは個人の生存は保障されない)、社会契約についてはここでは考えるつもりはないけれど、そういうある種の縛りやブレーキのようなものを概念として考えること、もっと単純にいうなら直接的な感情と行動のあいだにフィクションを差し挟むこと、それによってわたしが「ただのわたし」であることを越えられるなら、そのことをわたしは「よりよく生きること」と呼んでみたい。

 こういう場所にこういうふうに多くの言葉を重ねると、なかなか気軽には反応が返ってこなくて、わたしはかえって「リアクションされないこと」を望んでいるのではないかと自分を訝しんでもみるのですが、こうして日記を公開している以上、やっぱり反応を望んでいるはずで、これが手紙やメールのような私信として書かれないのは、私信であれば返事というのが当然なされるべきものとしてお互いにとって考えられてしまうからで、それでは相手に対して窮屈すぎると感じているのだと思います。

 今日はあなたにメールするつもりだったのに、こんなことを書いてしまいました。ごめんなさい。できるだけの親愛の情を込めて、ここで筆をおきます。