「露骨さ」への違和感(つづき)

 “「即効性のあるものだけ」が有効な世の中”というのはたしかにそうだけれど、ぼくが「グロテスク」だとおもうのは、要するに「じぶんもその事態に加担している」という感覚が、みんな欠けているのではないか、ということだ。
 友人の挙げたいまのクイズ番組*1を例にとるなら、あれは視聴者のレベルを無限に低く見積もっている。かつてのクイズ番組と違い、出題は一般常識レベルであって、その問題に対して「おバカ」な解答をするタレントと、それを笑いものにしつつ奇妙な共感で人気者に仕立て上げ、視聴者がそれを享受するという受け手と送り手の共犯関係。あるいは当の「おバカタレント」たちも、ある程度はほんとうにバカなのかもしれないが、演出に応じて「バカであること」を律儀に演じている。
 それを理解したうえで視聴者が享受している、という構図もじゅうぶんにグロテスクだが、いま言った「視聴者のレベルを無限に低く見積もっている」というのはたぶんその先があって、こうしたクイズ番組は、「おバカ」の演出を、括弧に入れつつ楽しんでいる視聴者だけでなく、それをそのまま受け入れ、なおかつじぶんもその問題がわからないという受け手が相当数いるであろう、ということを見越して作られている。つまりクイズ番組の作り手は、受け手がバカだとおもって作っている。そしてそれでいいとおもっているか、あるいは相当数のバカがいてくれないと困る、と考えている。
 投票をしない無党派層はそのまま眠っていてくれればいい、と言った与党政治家がかつていたが、バカな大衆はバカのままでいてほしい、とおもっているという点でクイズ番組の作り手もこの政治家と変わらない。そしてそういう構図を了解しながら享受している受け手の側も。
 “「即効性のあるものだけ」が有効な世の中”を苦々しくおもうぼくも、いまこうしてブログを書いている。ブログというのは即効性を肝としている。書いたら、できることならすぐ反応が欲しい、とおもうからこそ、プライベートな日記ではなくブログに書く。ぼくはやったことがないけれど、twitterみたいなものはそれがさらに先鋭化したものだろう。
 インターネットがなければ、個人の発言を届けたいとおもうならしかるべきメディアをしかるべき場所に確保しなければならない。インターネットがメディアを持たなかった個人に発言を与える機会をもらたしているのだとしても、その獲得には黎明期からいまにいたるまで、多くの人のたくさんの労苦を要しているはずだ。それは決して所与のものではない。そのことに対する敬意がなさすぎる。
 露骨さは、ひとつには敬意のなさに起因するのかもしれないとおもう。いまのよのなかでは(少なくともこの国では)、知に対する敬意がない。ぼくが今読みたいとおもっている本の著者はインタビューで、こう語っている。
 <「ある大学の教師から「質量ともに、この本は読者の能力を無限に高く見積もった本だ。そんな本を一般の人は読めるのか」と聞かれたこともありました。読めます。ラカンフーコーをまったく知らなくても読める。そもそも読者の能力を低く見積もって、「わからないだろうからやさしく書いてやろう」というのはファルス的な態度です。読者を見下して馬鹿にしている。そんな書き方がいつも許されるわけがない。>*2
 そう、さっき「視聴者のレベルを無限に低く見積もっている」とぼくが書いたのはこのやりとりを念頭においているのだけれど、知を持った人間が、ふつうの人を見下しているのがいまのよのなかの姿だ。「知を所有している」とおもっている人たちは、持っていない人たちとの格差を失いたくないから(彼らはそれで商売をしている)、知を所有していない人たち(と彼らがおもっている人たち)はバカのままでいてほしいとおもっている。彼らのそうしたふるまいに無自覚である限り、例えばぼくのような、じゅうぶんな知を持たない者は搾取され続ける。いや、そうではない。くだんの著者はこうも言っている。
 <フーコーラカンがなぜこんなに誤解されているのか。知を金銭のように考えているからです。知を蓄積し、知の元手を作り、利回りを考えて投資し、損失が最小限度になるように「情報のポートフィリオ」をつくってバランスよく知を増やしていく――そして老後は安心というわけです。インフレと恐慌に怯えながらの安心、自分が「所有」している知の価格の暴落に怯えながらの安心ですが。しかし、ラカンフーコーはこうした考えとは全くかけ離れたところでものを書いている。>
 つまり「知」を金銭のように「所有」するものだと考えている時点で同じ穴の狢なのだ。知は所有するものではなく、求め続けるものでなければならない(もっとも、それを欲するならば、だけれど)。
 ビーチバレーの話からずいぶんそれてしまったようだけれど、ぼくはもともとメディア批判をしたいわけではない。批判が何かを変えることはない。表面的に変わることはあるかもしれないが、それでは変わったことにならない。そういうことにもうみんな気づいたほうがいいんじゃないだろうか。あるいは、気づかないふりはやめたほうがいい。
 権力による弱者の搾取を「卵」と「壁」に喩えたところで何も変わらない。小説家はウソをつく職業だって? そんなバカな。
 小説家は徹底して現実に即してものを考えたうえで(だからこそ小説には人間が登場し続ける=具象であり続ける)、現実とは別種の何かを提示し続け、世界を変えようとする無謀な者の謂いであるはずだ。少なくともぼくの尊敬する小説家はみんなそうだ。もちろん国家の転覆とか、テロリズムとか、そんなことじゃない。そんなことじゃないことは、まともな文学や芸術に向き合ったことのある人ならわかるだろう。
 ささいなことかもしれないが、芸術を「好みの問題」として、すべての価値を相対化してしまう物言いは、気分に流される今のよのなかそのもので、そうした考え方でいる限り、人は「知」や「美しさ」にたどり着かない。求めることさえできていないと言っていいだろう。しかしその相対主義も、ポストモダニズムとして文学や思想によってもたらされたものであり、今日の世界を形作るのに一役買っていることはたしかだ。つまり、「世界は文学によって作られている」!
 いまのよのなかがこうであることは、たとえそうじゃないとおもっても、ぼくやあなたが望んだ結果だということ。そのことに対する無自覚さを捨てて初めて、ぼくやあなたのことばやふるまいは、いくばくかの意味を持つものとなる。
 そしてそうして始めて、いまのよのなかを覆う「露骨さ」に抗うことができる。すごーーく手ごわいけど。

*1:前日のエントリのsugylittlebird氏のコメント参照

*2:『夜戦と永遠』佐々木中氏インタビュー「図書新聞」2009年1月31日号/全文がここで読めます。http://www.atarusasaki.net/interview090131.pdf