「露骨さ」への違和感

 ちょっとうまく書ける自信がないのだけれど、どうしてかスイッチが入ってしまったので書くことにする。
 スマップの草なぎ剛の事件ともいえないできごとの報道のされ方に腹を立て、「もうテレビは見ない」といった友人がいたけれど、ぼくは別に以前からテレビを見ていてどうにもおかしいとおもうことがひとつあって、ビーチバレーの浅尾美和菅山かおるの報道にあって、ゲームの模様、試合後のインタビューなど一貫して、ビーチバレーはペアで行うスポーツであるにも関わらず、ほとんど浅尾のペアの西堀、菅山の相方の××は写されることがないという事実がそれだ。
 いま菅山とコンビを組む選手の名前をぼくは××と書いた。なぜならおもい出せないからだ。一応スポーツの報道では浅尾・西堀ペア、菅山・溝江ペア(名前はいま調べた)と報じられる。しかしどのニュースを見ても、ほとんど浅尾と菅山しか写されないから、西堀と溝江は視聴者に記憶されない、ということだとおもう。
 要するにビーチバレーのニュースにおいては、ビーチバレーのゲームとその結果を報じているのではなくて、浅尾と菅山の動画を見せているだけなのだ。そしてもちろん、そのことに視聴者も加担している(溝江選手の名前を憶えていなかったぼくもそうだ)。そしてみんな「それでいい」「しかたない」とおもっているのではないか。浅尾と菅山が美人だから、そのことが「ニュースバリュー」なのだから、と。
 その露骨さへの違和感、居心地の悪さは、このことだけでなく、なんというか、どうしても「よのなか」露骨さが透けてみえる気がしてしまう。あんまりそういう短絡はしたくないのだが、ビーチバレーの露骨な報道姿勢を見ていると、「よのなか」のグロテスクさが実体化して見えているようにおもえてならないのだ。
 「人志松本の○○な話」で、光浦靖子がこういう話をしていた。いま格差社会ということが言われていて、「格差」とは「収入」のことを意味しているらしいが、お金を持っていて格好もいい男は頭がよく容姿も美しい女性と結婚し、両親がそうであるためにその子たちもそういう者同士で結婚して……と、これがこのまま続けば、末は恐ろしいことになる。
 私たちみたいに上の方(※顔=ルックスということ)に不具合がある人は、その逆の負のスパイラルに嵌まっていく。結果的に格差はより広がり、容姿の劣るものは、収入も少なくなる。だから容姿をランク付けし、ランクが低いものは税金を安くしろ! と。生得的な格差には国家が保障するべきだと。
 つまり光浦靖子の自虐ネタなのだが、そういうことをお笑いの文脈で言わせてしまうくらい、いまの「よのなか」は露骨になっている。そしてそれは「アリ」だとされている。
 やっぱりうまく書けないな。こういうことを書くと偽善かルサンチマンのようになってしまう。ぼくはぼくが美しいとおもうひとと結婚している。ぼくはしかし、これまで30年ちょっとの人生で「モテた」ことはまったくない。
 けっきょく、どの方面から見ても気分のいいことばにはなっていないのではないか。でもだからこそ、これは「よのなかのグロテスクさ」の縮図じゃないか、という気持ちは抜けないのだった。
 妻はいまの新型インフルエンザの騒動で、みんながこぞってマスクを買って、予防に努めているさまを見て、「気休めかもしれなくても、そうやってちゃんと気をつけようとする日本人の感覚はきらいじゃない」と言っていた(欧米では、よほどの重病人か犯罪者でないとマスクなんかしていない。なぜなら、マスクをしたからといって予防ということについては絶対的な効果はないから合理的ではないからだ、という考えかららしい、というニュースを見て)。
 今日あるエッセイを読んでいたら、ロマン・ロランの小説「ジャン・クリストフ」で泣きわめくジャン・クリストフを見て爺さんが、「泣くからといって子供の言うままになってはいけない。勝手に泣かせることだ。」と言うのだという。エッセイの著者は続けて、「これがフランス人の常識というものなのかもしれ」ないという。なぜなら、知りあいのフランス人から「泣いたら水風呂に漬けてやるのがいいぞ」と真面目にすすめた、とか、また別のフランス人の知人は、「夜は少しばかりワインをまぜたミルクを飲ませておいて夫婦で外出するのだ」という話を聞いたのだ、と。
 ぼくはナショナリストではぜんぜんないので、「日本人らしく」とか、「国家の品格」とか、そういう話はうんざりするだけだが、やっぱり「日本人的な」メンタリティーというのはあるだろうから、いい部分は、もっと大事にしてもいいのではないかとおもう。
 書けば書くほどなんか、言えてないこと、ことばにできていない感じに、もどかしさだけが残る。