定義集「おもしろさ」

 つまらない本を読んで(映画を観て/音楽を聴いて/絵画を見て、etc.)、その感想を書くのはバカだと思う。そんなことをして、何がおもしろいんだろうと思う。
 読んで時間をむだにしたのに、またぞろむだな時間を費やして、「それを読んだ時間がいかにむだだったか」を書き連ねても不毛なだけだ。もしそれが立派な批評だったとしても(「立派な批評」が「素朴な感想」より価値があるものだろうか、という疑問もあるのだが、話が煩雑になるのでここではふれない)、「くだらないものがいかにくだらないか」という批評はぜったいに、「おもしろいものがいかにおもしろいか」という批評を超えることはない。
 なぜなら、くだらないものの「くだらなさ」はだれかに書かれるまでもなく自明だからだ。あるいは、その「くだらなさ」は、だれもが知っていることばで書くことができる。そして、だれもが知っていることばで書かれたものは、くだらない。念のために言っておくが、「だれもが知っていることば」というのは、もちろん、言い回しの難しさとは関係がない。
(と、こういうことを書くのも「くだらない」。だからこれから、「おもしろさ」について書きます。)
 いっぽうで、おもしろいものの「おもしろさ」は、既存の、ありきたりの、ありあわせの言葉では語ることができない。なぜなら、「おもしろい」とは、「既存のことばでは語られえない感じ」の謂いだからだ。トートロジーに聞こえるかもしれないけれど、ぼくはそう思っている。いや、「そう思っている」というより、「というか、そういうものでしょ」と思っている。
「なんだよそれ、おまえがそう思ってるってだけの話だろう? 言いがかりみたいなもんだな。お話にもならない」
 さてここでぼくはこういうことばを引いてみようと思う。適当にページを開いたら、こういうことばが書いてある本。

「お前たちは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
 父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる」

「あなたたちは、何が正しいのか、どうして自分で判断しないのか。あなたを訴える人といっしょに役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りをするように努めなさい。そうしないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れていき、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢屋に投げ込む。
 言っておくが、最後の一レプトンを返すまでは、けっしてそこから出ることはできない」

 理不尽なことを言うなあ、と思うのはぼくには信心がないからだが、「おもしろいなあ」とは思う。さっき夕食でキムチを炒めてみたら、すっぱさがやわらいでおいしかったが、カレーといっしょに食べるのは、やっぱり濃かった。そんなのは事前に予測できたはずだ。「事前に予測できるけど、やっぱりたしかめてみたくなること」と、「そうしてみるまでもなく自明のこと」というのがおなじことなのか、違うことなのか、あなたにはわかるだろうか? ぼくは、どうだろうなあ。それに答える代わりに、もう一度かれのことばを引いてみよう。やっぱり適当にページを繰って。

 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエススは空腹であった。そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄ってみたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの実がなる季節ではなかったからである。イエススはその木に向かって、「今から後、いつまでも、だれもお前の実を食べることがないように」と言った。弟子たちはこれを聞いていた。

 つくづく理不尽な人だ。だから信じたくなるのかな、というのもわかりやすすぎるだろう。この本のおもしろさについては、たくさんの人がたくさんのことを書いている(読んだことはあまりないけど)。たぶん、この「おもしろさ」を説明するのはかんたんじゃないからだろう。