シカゴ(病み上がり)

 昨日はDJイベント「ねたあとに、」の記念すべきVol.1で、お客さんの入りも自分のDJもまだまだこれから、という感じでしたが(ターニーのDJはやっぱりかっこよかった!)、そのことはまた「ねたあとに、ブログ」に書くとして、その場にイベントとは無関係にデジタルメモ「ポメラ」を持って行ったら、友人の一人が、
「携帯とかにすぐにデータ送れたり、それで携帯メール書けたりしたら、もっと便利だけどね。」
 と言ったのだけど、ぼくがポメラが好きなのは、「ネットに繋がらない」ということも大きいのだった。USBかmicroSDでパソコンにデータを送ることができるだけ。今NHKでちょうど「出社が楽しい経済学」という番組をやっていて(久しぶりにテレビを点けっぱなし)、そのなかで「ネットワーク外部性*1について解説されているのだけど、そういう商品やサービスばかりがもてはやされるなかで、こういうスタンドアローンのマシンはそれだけで「気高い」感じがする。孤独のうちの営み。もちろんUSBかmicroSDでパソコンにデータを送ることができなかったらあまり意味ないけど(でもそれでもいいかもしれない。ポメラで打って、それを見ながら、パソコンや手書きで「清書」する、くらいでも)。
 人から聞いた話だが、一昨日、「いいとも」に市川染五郎が出ていて、小さいころ、野球が大好きだったけど歌舞伎の稽古ばかりで友達がいないから、庭で一人野球をしていたという話をしていたらしい(たぶんテレホンショッキングだと思う)。
<壁に向かって投げて跳ね返ってきたボールを打ち、打ったとたんに野手になって壁に当たったボール(高さによってゴロとかフライを決めてある)を取る>
 という遊びで、実況も自分、スコアも一球ずつつけていて、「忙しいんですよ」とにこにこ話していたという。
 ぼくも似たような遊びの記憶があって、父のゴルフ練習用の発泡スチロールのボールをプラスチックのバットでノック風に打って、打球の行方によって自分なりにヒットやアウト、ファウルなどを判断して、一階の屋根に打球が乗ればホームランだった。プロ野球で、実際の球団に自分で作った架空の選手を登場させて、実際の選手と戦わせていた(その架空の選手を、もっともひいきしていた)。もちろん成績もつけていた。
 また、ピッチングは別にゴムのボールを壁に投げていて、少年野球もしていないのに、投げすぎで肘が痛くなったりしていたのだった。たまに人数が揃えば(といっても4人くらいだが)、友人たちと公園で野球もしたが、たぶんそれと同じくらいに、「ひとり野球」も楽しかった。あるいは、ぼくは運動神経があまりよくないので、実際の野球よりも、よい打球が打て、素晴らしいプレーができる(何より「プロ野球」なのだ)「ひとり野球」の方が、楽しい瞬間もたくさんあったと思う。

小説家は、ひとびとや、かれらの営みから身をひきはなしてしまっている。孤独のなかにある個人こそ、小説の生れる産屋なのだ。かれは、自己の最大の関心事についてさえも、範例となりうるような発言をおこなうこともはや不可能であり、他人の助言を受け入れることも、また、他人に助言を与えることもできない。小説を書くとは、人間生活の描写のなかで、公約数になりえぬものを極限までおしすすめることにほかならない。(166-167ページ)
ヴァルター・ベンヤミン「小説の危機」(『ベンヤミン著作集7 文学の危機』、晶文社

*1:電話などのネットワーク型サービスにおいて、加入者数が増えれば増えるほど、一利用者の便益が増加するという現象