Back to Back #1 『さようなら、ギャングたち』

 「電話よりも実際に会うよりもメールがいい」という、ある人の、ちょっと驚きの言葉に触発されて、誰に望まれているわけでもないけれど、今日から少しずつ、ぼくの好きな小説について書いていこうと思います。いろいろなジャンルの芸術が好きだけど、また、「芸術と、小説を一緒にするな」という声もあるだろうけれど、ぼくには一緒なのでそんな声は関係なくて、書物や文章でも、エッセイや評論、マンガも好きだけど、「どれがいちばんお前に必要か?」と問われたら小説なので、それを、(ぼくが出合ったときを)さかのぼりながら書いてみます。
 「誰に望まれているわけでもないけれど」と書いたけれど、ぼくの念頭には、具体的な何人かがいて、その人たちに向けて書くつもりで、始めてみます。
 前置きが長くなりました。
 始めは、19歳のときの『さようなら、ギャングたち』(高橋源一郎講談社文芸文庫)。
 小説を読むようになったのは高3のとき、国立大学2次、前期試験と後期試験のあいだ(つまり卒業式も終えた3月なかば)で、落ちるわけがないと思っていた前期試験で落ちて「だめだろう」と思って、半ばあきらめ気味だったから、勉強なんてしなくて本を読むことにして(なぜ小説だったのかは憶えていない)、そのときに読んだのが村上龍『愛と幻想のファシズム』、次に九州から関西への後期試験の受験旅行の行き帰りでの、ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』。高校時代はあとは、緒川たまきに心酔・私淑・追慕・恋していたから読んだ、夏目漱石夢十夜」と松浦理英子ナチュラル・ウーマン」くらいで読んだ小説の全てで、そのどれもまともに憶えていないので、ちゃんと何かを書くことはできません。ちなみに後期試験はなぜか受かっていて、だから(?)今ぼくはこうしてここにいて、これを書いているわけですが。
 ただ、『愛と幻想のファシズム』は、主人公二人の名前が当時(1996年)ぼくがハマった『新世紀エヴァンゲリオン』の登場人物に使用された(鈴原トウジ相田ケンスケ)、という予備知識から読み始めたものの、後期試験のために一応勉強するといって出かけた市立図書館で、小説を読みつけていない18歳の頭に、音楽やマンガ以外に、くだらない日常をやり過ごす対象があると教えてくれた記憶はかすかに、しかしたしかに残っていて、そのことは、今も感謝こそすれ、否定することはありません。
 それでそこからの続きで話を進めると、他の人は知らないが、ぼくの十代は「有り余るエネルギーを抱えた無軌道なもの」では全然なく、当時ぼくが読んでいたようなサブカル雑誌にもよく登場した、社会学者・宮台真司の「終わりなき日常をまったりと生きろ」という言葉じゃないけど、一見くだらないような、そして確かに耐え切れないような、この日常を、ただ生きることだけが人生の価値だ、というようなことを思っていて、みんなで高校生らしいバカをやった記憶はあんまりなくて、あるとしたら友人宅で、ロリコン〜熟女〜スカトロの変態AV3本立て上映会でまったく飲めないお酒をしこたま(いや、たった一杯だったかもしれない)飲んで吐きまくったことくらいで、あとはただただロックやテクノを聴いたり、雑誌やマンガを読んだりしていたのですが、そういう価値観を、ゆっくりと、けれど確実にひっくり返したのが、大学1年のときに出合った、高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』と、フィッシュマンズの『宇宙 日本 世田谷』だったのです。

 S・Bの目はしろめの部分がとても白い。
 三つぐらいの子みたいにかすかに青みを帯びているときだってある。
 わたしは、S・Bの鼻がどんなときにふくらむか、唇がどんな風に両方共厚いか、鎖骨のくぼみがほとんどないか、みんな知っている。
 黒くって、やわらかく、面積のせまい恥毛や性器も知っている。
 S・Bの魂については、なにも知らない。自分のだってわからない。
 そんなものはないかも知れない。あるとしたって、何の役に立つのか全く見当がつかない。どうせキスするなら、魂とより唇との方がずっといいとわたしは思う。

 今、本を開いて、たまたまいつか2箇所にしていた付箋のところのうち、とびきり美しい方を引用してみたけれど、どこを引用しても全然、ぜんっぜん『さようなら、ギャングたち』の、『さようなら、ギャングたち』らしさにはたどり着かないような気がして、だから今でも大好きだと思うけれど、1997年のぼくが、どうして『さようなら、ギャングたち』にたどりついたのかは、思い出すことができません。
 当時ぼくはライターか編集者になりたい、と思っていて、ライターのためのブックガイドのような本か、音楽雑誌か何かで名前を知ったのだったろうか。ハインラインの『夏への扉』も、グリーンデイの『Dookie』というアルバムのライナーで、ライターのまったく個人的な思い入れで取り上げられていたのを読んで、読んでみたのだったから、たぶん、そういうところだろうと思います。
 音楽雑誌を読んで頭の中の音を鳴らした、高校生の頃の音楽の聴き方のように、少しだけあった予備知識だけで、たぶん読む前からいろいろに想像を膨らませて読んだ『さようなら、ギャングたち』は、ギャングたちの話でもなければ、さようならの話でもないのに、読み終えたとき、ギャングたちにさようならをするような本でした。つまり、何が書いてあるのか、ぜんぜんわかりませんでした。でも「ぜんぜんわからなかった」のに、気持ちだけは完璧に持っていかれたのです。その気持ちは、たぶん、マイナー調のもので、ぼくはしばらくして、少し賢くなったような気がしたときに、
 「これは、みためはぜんぜんそんな形をしていないけれど、大学紛争に青春を投じ、挫折し、10年を過ごした、作者の私小説なのだな。」
 そう思って、この小説の、マイナー調の、切なさのようなものを自分に説明しようとしたのですが、さらに時を経てみるとやっぱり全然違っているように感じました。
 「そんなものだけが書かれているんだったら、こんなに、おもしろ、おかしいわけ、ないでしょうよ。」
 そんなふうな、少しませた少女みたいな口調で、20代はじめのぼくに説教してみたくなったものです。
 それでぼくは今回は、『さようなら、ギャングたち』を読み返したわけじゃないから、またいつか、読み返すことがあったとしたら、またたぶん、ぜんぜん、違ったように感じるのかもしれない、というふうに思ってみるのですが、何度読んでも、「これが、ぼくの、人生の、ほんとうの、はじまりだ」って、そんなものに、誰もが出合ったときにする錯覚のように、思うのだろうと思います。
 ぼくは貴方や、貴女にとっての、そういうものの話を聴くのが、大好きなのです。だからまた、聴かせて下さい。今回は、これくらいで。