まるで世界

 芸術の享受のしかた=世界の捉えかたでは大きく二つの極があって、それは、そのとき(芸術を享受するとき=世界を捉えるとき)に私の心に生まれる「何か」は、「世界」の側にあるのか、「私」の側(心、でも脳、でもいいけれど)にあるのかということで、ぼくはどちらかというと「世界」の側にあると考えたいのだけれど、まだよくわからないところもある。
 特定の場所や匂い、音によって記憶が呼び起こされたり、感情をかきたてられたりするのだから、そのときに生じる記憶や感情は、このぼくが持ち歩いていると考えるよりも、その場所や匂い、音にそれを喚起する何かがある、あるいはそれら自体に、ぼくが感じているらしい心の動きが内包されている、と考える方が当たり前、と思えて、また、何かが作られる態度としても、感情や自我のようなものを何重にも織り込んだものよりも、目の前にある世界から、(たとえそれが大きな誤解でも)何かを見い出しているようなものが好きだ、ということもある。それ(=作られたもの)が誤解の産物だとしたら――というか、誤解以外にありえないような気もする――「誤解」というのは心の働きというよりもむしろ、何かがそこを通ることによって、「変換」される装置のようなもの、というふうに感じられる。
 だから生き物の行為は環境に依存する、意味や価値は環境にある、という、「アフォーダンス」という考え方は受け入れやすいが、それでは、特定の場所に存在することをあらかじめ規定されたサイトスペシフィック・アートのようなものが(それらには確かに素晴らしいと思えるものもたくさんあるが)理想の芸術か、というとどうだろう? と思う。
 もうひとつの極、人が作り出したものはすべて脳のしくみに由来するという「唯脳論」とか、世界の事物に接したときに心に生じる質感=「クオリア」を脳と心の問題として捉える考えかたが魅力的なのは、結局のところ、「なぜそうなのかわからない」というところにあるのではないかと思う。「アフォーダンス」という概念の有効性は、アフォーダンスを用いることで理解が広がる=それ以前の考え方よりも論理的な整合性が高い、というところにあるのではないかと思うのだが、「それで説明できるのなら、それでいいじゃないか」ということになってしまうように感じる。ほとんどとっかかりがなさそうなのに、なぜか面白いと感じるようなもの、というのは本当に面白くて、というか本当に面白いものはそういうもので、そこに何があるか考えるのは本当に楽しい。唐突だが宗教が人を惹きつけるのは、理解を超えているところがあるからで、あるいはそれは、何かがそこを通るときの「変換」の奇妙さのことであって、変換が予想を超えて奇妙であるときにこそ、人はそれに魅了される。