ひとり、『攻殻機動隊』とイチロー、スタンドプレー、友人たち、リニアであること

 「“ひとりの時間をどれだけ、いかに過ごしたか”ということが何かを作る人にとって大切なことで、ひとりの時間を過ごしてきた人の作り出すものには、それをしてきたものだけが放つ輝きがある。」
 と言った人がいて、その考え方はぼくも好きだ。というか、その人の言い方は、「ひとりきりの時間をちゃんと経験した人の作りだすものが、私は好きだ。」というような、もう少し穏当なものであって、最初の言い方はぼくの創作だが、それがぼくの価値観でもある。だから、人が集まって、みんなで何かを作ることはそれだけで楽しくて、そういうやり方でしかできないこと、ひとりでは絶対に成し得ないことはたくさんあるが、しかしそれに先立って、「ひとりの時間」を背負ったそれぞれの人があるのだと思う。
 ぼくが『攻殻機動隊』というアニメ、とくにStand Alone Complexのシリーズが好きなのはたぶんそういうことで、公安9課という組織が、極めて有能な組織であるのは、彼らの「チームワーク」が優れているのではなく、彼らが「スタンドプレーの集合体」であるからである、という公安9課のありようが好きなのだと思う。メジャーリーガーのイチローは、チームプレーではなく、ひとりの選手として能力を発揮することだけに注力しているように見えて、「どんなプレーもランナーがダイヤモンドを廻ってホームに帰ってくる=得点(Run)に還元される」という、野球というゲームの持つ本質から外れているようにも思えるが、イチローの野球観は、「公安9課はスタンドプレーの集合体」という価値観に通ずるものだと考えてみれば、それこそが野球じゃないか、ということになる。
 それぞれがバラバラに見える、投げる、打つ、走る、捕る(守る)といった様々な運動の集まりである野球というスポーツで、もっとも難しいのは、「走ること」だとイチローが言っていたのを聞いたことがあって、野球の得点は、「点」(Point)ではなく「走」(Run)である=すなわち、ランナーが各塁を回ってホームに帰ってくることである、という、それより以前に聞いた話にちゃんと繋がっている、と思ったのだった。
 しかし書きたいのは『攻殻機動隊』のことでも野球のことでもイチローのことでもない。1月2日の夜に、正月休みに故郷で高校時代の同級生たちと久しぶりに会って夜を明かして、そのなかには高校卒業いらい、つまり12年ぶりに会うような人も何人かいたのだが、テーブルを囲んで数時間も話すうち、それぞれの12年を経て、それぞれはそれぞれに変わったように見えて、こうして昔と同じようなメンツが顔をそろえて話をしていると、全体が作り出す雰囲気はほとんど昔のままじゃないか、というような気がした。
 KとNが話している内容もかつて話していたことのヴァージョン違いだし、それを聞いている周囲の態度、笑い方もそのままだ。Kが自らの知見や価値観を、我々に輸入(という言葉が適切かどうかわからないけど)してくる感じとか、ぼくの行き先を考えない放りっぱなしの発言とか、Fがやりたいことだけやっていつのまにか寝てる様子とか、そういう全てに既視感があって、かつての自分たちをなぞっているように思えてくる。しかしそれぞれはそれぞれに違う道筋を歩んできたはずで、この数時間はこの集まりだからこその、みんなが「共犯」となったロールプレイなのかもしれない。これが昔のように、好むと好まざるに関わらず(このことにそのときは気づかなかったが)毎日顔を合わせ続けていたなら、今の我々が集まって、このように振る舞うことはないのかもしれない。
 それぞれのスタンドプレーよりも、自然に集団の力学が支配するのが「人の集まり」というものの本質で、「スタンドプレーし続けること」はずっと難しいのだ、というふうに言ってみれば、出だしの話と繋がってくるようだが、そういうつもりで「ひとりの時間」ということや、『攻殻機動隊』「野球」「イチロー」を持ち出したのではぜんぜんなくて、「ただとにかくとりあえず」書き始めたのだが、こういうふうにリニアに文章を繋げていくと、そういうふうにいくらかは繋がってしまうのが文章で、そういうことの「怖さ」にもう少し意識的であろうと今日は思った。
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