Happy Go Lucky.

 元旦からの帰省では、その道中も含めて序盤で頓挫していた『ロリータ』を読んでいて、ホームに入っている祖母に会いに行ったり、隣町に住む祖父へのあいさつや、もうひとりの祖母の墓参りをして、食べたものは正月にはいつも取っているおせちや中華の仕出し、母親が作る薄味の雑煮、二日の昼食には少し遠出して佐賀牛のステーキ、夜には一年ぶりや高校卒業以来の友人たちと我が家の応接間で未明までバカ話――そんなもろもろの合間に断続的に、ロリータとハンバート・ハンバートとの道ならぬロマンスに付き合っていた。
 それでも500ページ強の小説の半分と少し、300ページを過ぎたあたりでまた止まっていて、それはハンバート・ハンバートが妻の死(「妻」といっても未亡人である彼女の娘、つまりハンバートの愛するロリータに近づくためにいわば「偽装」結婚したわけだが)をきっかけにロリータと結ばれ、全米を放浪する旅をしたあげく、ビアズレーという街に落ち着くあたりのところで、各地を転々としている道中を読んでいるときには、ところどころの濃密な描写にもかかわらず、けっこうダレていた。
 それに『ロリータ』はかなり自己言及的というか、この小説が「読者に向かって」書かれていることをいちいち意識させるような書き方がされていて、語り手が自分のことを「私」といったり「ハンバート・ハンバート」といったり、今自分がその物語の渦中にいるように語ったり、時間的にも空間的に離れたところから語っていたりして、そういうことも関係しているのか、読んでいるときの感じはけっこうだらだらしている。
 それが悪いのかというと「いい」ということになるのだが、なんでそれが「いい」ということになるのか、ちゃんと説明するのはちょっと難しい。とにかくぼくにはそのだらだらした感じがよくて、それに対応して読むときの態度としてもだらだら読み続けていると、少女愛という性向が自分にはなくても、ハンバート・ハンバートに倫理観や人間性を疑うようなところがあっても、
 「あんたを見てるとムカつくんだよ。あたしだってピチピチの女の子だったのに、なんてことしてくれたの。この人にレイプされたって言ってやるわ。もうっこのお、いやらしいスケベおやじ」
 なんて蓮っ葉な話しぶりのロリータ(翻訳は平成17年の新訳)に「全然かわいくないなァ」なんて思いながらも、こいつらの破滅的な(でもだらだらした)ロマンスにずっと付き合っていたい、と思うようになっている。昨日の夜、ウチに来た友人と話したことを思い出して、こういうふうにだらだらの、ゆるゆるの、ずるずるの付き合い方のできるテキストを、ぼくも書けたらいいな、ということを思った。
 ――と、ここで終わってしまうと本来書こうと思っていた1月2日の夜の友人たちとの邂逅のこと、12月30日〜31日の友人たちとの1泊旅行のこと、近くにいる友人たちと、遠くにいる友人たちとのぼくの付き合い方の感じの「違い」(あるいは、どういうふうに「同じ」か?)、あるいは、時を隔てて変わるものと変わらないもの……日記を書き始める以前にぼんやりと思い浮かべていたそういうことは書けなかったことになる。それはまた書くことになるか、書かないことになるか。とにかくハンバート・ハンバートとロリータには、もう少し付き合うことになる。
ロリータ (新潮文庫)