「写真には写らない何か」とか。

 へらへらと過ごしているようでも浮き沈みや揺れ、上下動はあってせっかく休みを取ったのに、朝から畜生も食わないらしい諍いでひとり外に出たり、海辺の車中でひとり昼過ぎまで、昼からはふて寝。
 夜は夫婦共通の友人が遊びに来てくれて、遅くまで話し込む(こういうときにこういうタイミングで来てくれる友人の大切さ!)。「おしゃべり」というものに「満足」というものはないらしくて、どんなにしゃべったと思っても、しゃべり足りない、もっとこんなことも言えた、あんなことも聞けた、なんて思う。ぼくみたいな聞き下手でも、相手の基本情報や属性をある程度知ってしまって、改めて「相手について」何かを聞かなくてもよくなってからが、より楽しいだろうな、そんなことも改めて思う。
 つまらないケンカなんてするべきじゃないけど、おしゃべり、コミュニケーションは齟齬がなければする意味なんかなくて、表現として言葉を綴るときには「頭の中に浮かんだそのままを文章としてトレースできたら。」なんて考えてしまうことがあっても、言葉(と思考)というのがそれができる程度に単純なものだったら、だれもしゃべらないしだれもものなんか書かない。
 なんてことはへらへらと過ごしながら浮き沈みや揺れ、上下動を経験しながら知ることであって、大学で専攻した「コミュニケーション論」って何だったんだろう? と思う。もっとも勉強なんて全然しなかったが。
 午前0時を回り、友人を見送りに階下の駐車場に降りて、空を見上げたら、中天に満月があって、その周囲を大きく取り囲むように、白い輪っかができている。そんなの見たの初めてだ。
 3人で空を見上げ、
 「いいもの見れたねぇ。」
 「UFO?」
 「アルマゲドンとか?」
 「明日になったら何にも憶えてないんじゃない?」
 「それか私たち3人が消えてしまって、みんなの記憶からも抹消されたりして。」
 そんなことを話すくらい現実感のない眺めで、一日の終わりとしてはすごくよかった。
 車で帰る友人を見送ったあと、
 「一応写真撮ってみる。」
 4階の部屋まで駆け上がりデジカメとケータイを取ってきて、何枚か写してみるが、やっぱり写真には写らない。2008年12月12日深夜(13日未明)、ぼくたち3人だけの、とっておきの光景。それをトレースして再現することは不可能でも、それを伝える言葉を紡ぎたい、と改めて思う。改めて何度も思いなおすことも、言葉の、コミュニケーションの、真髄か核心か意義か秘儀みたいなものだろう、そう思う。
 眠りにつく布団のなかでは、別の友人が送ってくれた自然音のCDを聴いて安眠。こういうものは聴いたことがなくて、だったら自然のなかに行けばいいじゃないか、というのが聴かないでいたときの考えだが、他のCDは知らないがたぶんこういうものにも音を捕まえる技術か感性(というカンタンな言葉はあんまり好きじゃないけど)があって、ほんもの以上に音として洗練か純化されているのかもしれない。印象派の絵画が現実そのもの、「見たまま」というような意味で。そんな言い方も単純すぎるけれど、とにかくすごく気持ちよくて、とにかく安眠。