ごく当たり前の日常だけが、

 ピロウズがラジオをやっているというのでサイトを見たら、ポッドキャストがあったので落としてiPodに入れてみた(ポッドキャストについて、この語法で合っているのかどうか知らない)。サイトによれば25分ある番組なのに、ポッドキャストでは9分ほどしかないので、ON AIRからかけた楽曲だけ外しているのか、と思って、サイトに載っているオンエア・リストを見て、YouTubeで聴いてみることにした。まだ番組の方は聴いていない。
 オンエア・リストは3曲で、2曲はピロウズの今度のアルバムの曲でもちろん買って何度も聴いているのでパスして、もう一曲はThe Breedersの「I Just Wanna Get Along」。検索してみたらその曲は知らなかった。Breedersで知っているのはかつてMTVやスペースシャワーで何度も観たPVが印象的な「CannonBall」で、今観てもめちゃくちゃかっこよかった。関連動画にVeruca Saltの「Seether」があってそれもほんとにかっこよくて、どちらも曲も演奏もPVもラフでいい加減といってもいい構えなのだが、ふしぎに「完璧」という言葉が浮かび、 「完璧さ」と「いい加減さ」が同義であることは芸術においてはごくふつうにあるということを、改めて感じる。それにしても、こんなバンドとか、こんな曲、ひさしぶりに聴いたな。
 昨日から、誕生日に友人(「千川つながり」のタッピー氏)にもらったモレスキンの手帳に、手紙以外ではひさしぶりに手書きで文章を書いている。キーボードとはやっぱり感じが違ってより難しくてなかなか進まないけれど、全然違う面白さがあるし、これはちゃんと続けて、フィニッシュしたい。

私はどうしてこんなに自然が描写された文章が好きなのだろうか。この小説がおもしろくなりそうなのかどうか、気分はまだまったく定まらないままのかなり漠然とした読み方をつづけていたときにここに出会って、気持ちがシャキッとした。
 自然を書くときには小説家ごとに違った書き方になる。自然は人間が存在する前から存在していたわけで、あたり前だが言葉が存在するよりずっと前から存在していた。だから自然は言葉を必要としない。
 人間の思うことは言葉とともにあるから言葉で書くことにそんなに苦労はない。人間の動きも人間自体が言葉と無縁でいられないのだから言葉によって書ける。しかし自然となると言葉がない時代からあったのだから、フリークライミングの岩で指先がかろうじて摑めるところをそれぞれに手さぐりするようにしか書き手は自然に接近できない。自然を書く難しさとはそういうことなんじゃないかと思う。
保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』(新潮社)、62-63ページ