偶然、世界の奏でる音楽に。

 抜き書き。

 確かに、いま私の目が見ている物や風景は私以外の何者かが見ているわけではない。それこそが、私と世界が触れ合う根拠であり、私がこの世界に生きている証拠であると、強く感じる瞬間もたびたびあることもまた確かではあるのだが、それは本当にそんなに信用に足るものなのか。
 白川静は内的な経験を積み重ねることによって、非−個人的な存在となった。白川静が整理した資料を託される後継者もまた、白川静と同じように、個人的で内的な経験を積み重ねることによってしか、非−個人的な資料を自分の身体の一部のように活用することができない。
 ここでは自分の体験がただ素朴に信じられているわけではない。体験はひとつの契機にすぎなくなっているというか。それでも体験は重要な駆動因になっているというか。
保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』(新潮社)、39ページ

 小説というのは、結論のない論文というか、オチのない落語というか、投票のない選挙というか、答えのない問いみたいなもの、ということをこの作家によって僕は教えられたが(「小説」という言葉は他のどんな芸術に置き換えてもいい)、そういう着地点のなさを、「ない」と言い切ってしまうのも雑だということもやっぱり教えられた。手を変え品を変え、ずっと同じことだけを言っているように見えて、新しい作品を読むたびに、新しい発見があるというのはすごいことで、それでこそプロなんだと思う。
 あれだけの前人未踏の記録群を打ち立てたイチローも、昨シーズンのオフのテレビのインタビューで、「まだ暗闇のなかにいて、かすかに見えそうな光を探っている感じ」というようなことを言っていた。あれだけのことをやってのけて、なお!
 (神というものを措定するとしたら)イチロー羽生善治は「野球の神」「将棋の神」と戦っているのだろう。「野球の神がいるとしたら、こんなプレーをするに違いない」「将棋の神がいるとしたら、こんな将棋を指すに違いない」。いや、違う。野球の神がするプレーがどんなプレーか、将棋の神が指す将棋がどんな将棋か、イチローや羽生にもわからないのだ。羽生だって「人間の指す将棋はまだ3%」と7冠の頃言っていたらしい。「小説が止まって見えるようになった」という保坂和志も、神が書く小説には全然届かないと言うだろう。いや、それも違っていて、「小説を書く、という行為に神を措定することが間違いだ」だろうか。
 そんなふうに勝手にひとに言葉を語らせる僕が間違っていて、こういう「問い」を僕自身の言葉で僕自身が発していかなければならないのだが。
 少し前に観に行った、小さなバー(喫茶店?)で行われたさるベテランのミュージシャンのライブがはねたあと、お店でそのままそのミュージシャンの方が飲んでいて、僕も少しだけ話す機会があったのだが、
 「君は音楽はやってないの? 何かやりたいことってあるの。」
 と問われ、僕は
 「本を読みたいんです。」
 と答えた。するとそのミュージシャンの方とお店のマスターに、
 「そんなのいつだって読めるじゃないか。読め読め。」
 といって笑われた。僕は笑われたことじゃなくて(その笑いは年長者から若者へのエールみたいなものだった)、率直に「書きたいんです」ということを初対面のその方にさえ言えなかったことが悔やまれて、その日は少し落ち込んで、「○○さんまだお店に残っているから話していこうよ」と僕を誘った妻を恨む気持ちさえあったのだけど、後日そのお店に別のライブで行ったときに、マスターはそのときのことを覚えていて、
 「あのときの○○さんと君のやりとりは覚えてるよ。どう? 読んでる? どんなのが好きなんだ。」
 その日はバンドをやっている友人がCDを持ってきていてそのCDのライナーを僕が書いたんだとか、そういうものとか、もっと長いものを自分でも書きたいんだ、僕もそんなふうに調子よく話して、
 「保坂和志とか田中小実昌とかたらたらしたのが好きで、今は内田百ケンの『第一阿呆列車』読んでます。」
 とか何とか言ったらマスターもノッてきて、「そうかそうか、じゃあこんなのも絶対好きだろうから持っていけ」なんていって、店の本棚に置いている阿佐田哲也とか南伸坊とか小沢昭一とかの本をくれて、
 「まだまだ家にあるから今度送ってやるよ。ここに住所書いてよ。」
 言われるがままに書いて、送ってもらえるという本はまだ届いていないのだが、そのときもらった本も全部は読めてないから、というわけじゃなくて、
「今度こういうの書いたんですよ。ぜひ読んでください。」
 なんて言いたいというか言えないがためというか、このところはそのお店に足を運べていないのだけど、作者がすでに死者になったり数十年前に書かれたりしている本によって、年齢も生い立ちも違う人間がこんなふうに盛り上がれるのはとても楽しくて素晴らしい。などと書くとこの話にオチをつけたみたいだけど、もう数ヶ月前になるこの話を今日こんな流れで書いたのはそういうことが言いたかったからじゃない。「問いを持ち続けている大人はかっこいい」ということも確かにそうだけれどそれを言いたいわけでもない。
 「時代」とか「大きな流れ」に関係なく、日々は続くということ。しかし自分が体験した「小さな出来事」そのものが大切なんだ、というのでもない。「小さな出来事」はひとつの契機だ、ということ。
 “Music of Chance”(偶然の音楽)というアメリカの小説があって最近はその小説家の本はあまり読まなくなってしまったので、その小説じたいを今も好きかどうかわからないのだが(筋はなんとなく憶えているが)、このタイトルはすごく好きで、ときどき言ってみたくなる。
 「ミュージック・オブ・チャンス」
 って。
 片仮名にするとなおいい。