覚え書き/絶望が幸福である稀有な体験

<「何か」について考えることと、「何か」を作ることはほとんど同じことだけれど、違う。しかし違うということを強調するより、「ほとんど同じ」ということのほうが重要だ。>
<何をするにしてもそれをしている時間のなかにしかそれはないのだから、その人がそれをしていることの理由はその外側にはない。>
<ほんとうに心を動かされるのは、共感とか感情移入とか――、「わかるわかる」ではなく、世界観を揺さぶられること、心がエアポケットに入ること、気持ちがぐらぐらすること、思いがけない場所に連れて行かれること、自分を遥かに超えるものに奪い去られること――「わからないわからない」、そういうものだけだ。>
 誰かと話したり、何かを読んだり、見たりして、何かを考え、考えたことを抱えてまた誰かと話したり、何かを読んだり、見たり、それだけで生きている価値がある。「よりよく」生きるということは僕にとってそういうことで、だから僕は明確に「よりよく」生きたいと思っている。
 使命感とはそういうことで、けれど日常の「怠惰」への誘惑は抗いがたく、10年前と比べたら体重はずいぶん増えたし(笑うところです)、自分にとってただひとつの、「ほんとうにやるべきこと」はまだできない。

小説家が自分が書いた小説を語るときはいつも事後で、小説を書いている時間の中にいるわけではなくどうしても小説から離れざるをえないために、絶望が幸福である稀有な体験でなく、もっと通りのいい、そのような体験があると想像もしない人にもわかることを語ってしまう。自分の言葉が相手に伝わることは喜びとまでは言わなくてもある満足をこちらにもたらしてくれるものではあるが、相手に伝わる言葉を多く話すほどに、自分の書くことが人に読まれうるのか? 自分の書くことが小説と呼ばれうるのか? というあてもない不安のうちに自分がいた頃の、つまり絶望が幸福である稀有な体験そのものが小説家から遠いものになっていく。
保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』(新潮社))

 こんな本を読んだり、人と話したり、メールを書いたりして<>のなかのことを考えて、でもこの考えはまだ自分自身の言葉になっていないんじゃないか、でもそんなことよりも今はこの本だ、というくらい『小説、世界の奏でる音楽』は素晴らしい本で(まだ全然読み始めたところだが)、僕はふだん主張なんてしないけれど、何かを作る人なら「小説」を自分の作るものに置き換えてでも読むべき本だ。でもさらに高い山もある。遥かに高くそびえる山。
 「この幸福は絶望なのです」といったらしいカフカ。でも僕はカフカのその本にそんな言葉があったと気づかなかった。世界はもっともっと目を凝らせば、もっともっとよくできている、ということだと思った。