「無邪気だった季節をちょっと引っぱり出してみたんだ」

 髪も切ったことだし、ここ最近ちょっと、生まじめな内容が続いてしまったので、息抜きっぽい感じで、できるだけ。
 音楽に関してぼくは好きというだけで「深める」ということをしたことがなくて楽器も何ひとつ「触れ」ないし、コードとかもよくわからない。ときどきDJなんかやったりしても、まともなミックスさえできなくてただかけているだけで、ごくごく広く浅い嗜好で聴いている怠惰なリスナーでしかない(だからといって美術とか、文学とか、他の芸術・表現の分野を体系的に学んだことがあるかというとそうでもないのに、音楽については妙にこの「素人」という意識があるのが自分でも可笑しいけれど)。
 それで一番熱心に聴いていたのは10代ということになって(思えばこの頃していたのは、音楽を聴きながら、音楽的に深めるという作業ではなくて、もっぱら観念的なそれだった)昨晩も眠れないままiPodで、日記のタイトルに挙げたピロウズの歌詞よろしく、耳の記憶にこびりついた曲ばかりを1時間も2時間もサーフしていた。
 スマッシング・パンプキンズの「Bodies」の轟音と金切り声は今も耳に心地よいし、ナインインチ・ネイルズの「The Perfect Drug」の性急なブレイク・ビーツと断末魔みたいな歌声を聴くと、歌詞なんか覚えていないのに10代の無根拠な孤独感が現前するような気がする。
 鈴木亜美joins Buffalo Daughter「O.K.Funkey God」は全く最近聴いたものだが、これに食指を伸ばした理由は目新しいものではなくて、鈴木亜美の(短絡的なイメージかもしれないけど)いかにも不幸とか憂いを背負った声色がこれもまた無根拠に気持ちを暗くさせてみたり、電気グルーヴのふざけたレゲエ、「ボクの姉さん」は、高校のとき、友人の家でビールを飲みながら(僕は今も昔も下戸だけど)、ロリコン〜スカトロ〜熟女というキワモノAV鑑賞大会をやって部屋のなかでしこたま吐いたことを思い出させる。あるいは、大学に入ってすぐ、高校時代の同級生の住む東京のアパートに押しかけ、ここでも無理やり飲んでそいつの家の屋上で気が済むまで吐いたこととか(そいつとは今に至るまで和解していない)。電気グルーヴと嘔吐は親和性が高い。
 ストーン・ローゼズの「I Am The Resurrection」なんかはさっきも書いたティーンエイジャーの観念性の極北みたいな聴き方をしていたのに、キリスト教的なモチーフの歌詞が本当はぜんぜん理解できていなかったことを苦々しい感じで改めて認識させてくれて、スーパーカーの「FAIRWAY」は当時全く聴いていなかったのに、今「意外にいい」なんて思いながら聴いていると、この曲が自分の10代を支えてくれたような錯覚をして、10代とか青春とかに対する個人の感慨や記憶なんてものはかなりの部分、捏造なんだろうな、と思う。
 というふうな聴き方をしていると、10代の人間の嗜好というのは当時の本人にとってはエッジを行っているような気分でいても、ごく狭量なものだということがはっきりとわかる。大学入学と同時に家を出たぼくはそれまでとそれ以降で大きく断絶している感覚があるが(自分の年表を作ったらそこが太線で区切られているような)、こういう音楽を今も引き連れて生きていて、「息抜き」とか言いながら同じようなトーンの日記になってしまったのも、10代の「狭量さ」のいくらかは、否応なく引き摺っているもんだ、ということかと思う。
 次は天気か野球か政治の話題にでもしてみます。嘘だけど。
 それではまた。