日記による自己批評文として

 このブログというか日記を断続的に書き始めて約1年あまり、ここ最近ようやく「感じ」がつかめてきたと思っていて、現実の一応の「写し」である日記から少しだけフィクションに振ること、あるいはできるだけストレートな反応(コメントなど)がしにくい書き方にすること、というのが自分で分析したここ最近の書き方の「作法」なのだけれど、それでもやっぱり「思いを十全に表現する」ということからはほど遠いと感じている。
 しかしこの言い方も間違っていて、「思いを十全に表現する」ということが不可能だということもよくわかっている。
 今日これを書いている書き方は何を書き始めるかまったく見通しを立てずにキーボードを叩き始める、というもので、「見通しのなさ」というのは今ぼくが置かれている立場とも共通している。
 私生活においてはこの街で新たな素晴らしい友人たちに出会えて数十年後に振り返って「人生最良のひととき」に数えられる時間だろうことは疑いないが、しかし今の組織に属している以上は転勤があり、いつかは(それはすごく近いいつかかもしれないし、少し先のいつかかもしれないが)この街を離れなければならない……ということももちろんだが、今、周囲を薄暗い霧に包まれたような気持ちでいるのは、頭にぼんやりと浮かぶ不確かな、とても不確かな、遠く高い光を追い求めながら、現実にはまだまだ望むべくもない、すなわち、自分自身の表現として「書きたいもの」がまだまだ書けていない、ということがあるからで、ここ最近のこの日記が自分にとっては「書けている」ことで、少しその光に近づいたような気もするし、まったくの錯覚のような気もしている。
 と、ここまでの流れもあえて迂回しようとしつつも直線的になっていると思えてきて、一昨日二人のSに捧げるメッセージを書いたときには、そのうちの一人から教えられたこと、「ぼくも頭文字が「S」だ」ということには、思いも寄らなかった。
 「世界を見る目」という意味でこれはぼくの視線の狭さを表している。ここ数年、ぼくは意味のない「こだわり」を捨てる、というベクトルで生きていると思っていて、音楽にしろ文章表現にしろ視覚表現にしろ、「食わず嫌い」というようなものはわりに自然とどんどんなくなっているようなのだが(しかし、芸術というのはたんに「好みの問題」ではなく、「良い」「悪い」は厳然とあるし、「良い」ものがわかるようになってきた、という自負もある)、それでもその「捉え方」という部分で視界の狭さがあるんじゃないのか。
 小説やエッセイ、評論を「抜き書き」したり、ひとから頂いた言葉を引用してみたりするのは、自分の外からの言葉が自分の見えている世界の外にあると感じられるからで、だからぼくが引用する言葉は共感から引用しているつもりはない。
 「Sさん(ぼくのことだ)が、いつも自分の言葉に意識を傾けている」とSさん(本当に紛らわしいけど、一昨日の日記に書いたSさんのことだ)は言うけれど、ひとの言葉をはじめとした「世界」にもっと耳を澄ますこと、そのことの大切さはいくら強調してもしすぎることはない。
 今ぼくは髪が伸びすぎていて(何せ3ヶ月も切っていない)、気になってしまって癖ですぐ髪の毛を触ってしまうのだけれど、そのことが何か「表現」になるとは思わなかった。いや、「なる」と言っているのではない。しかし、ものを書くときに現実から捨象してしまっていることのなかに、世界にとって「福音」たるものがきっとたくさんある。
 「写真で切り取ることによって現実を虚構へと転換させると、虚構の精緻さに圧倒されながら、じつは現実をより深く見ることが可能になる」と片岡義男は言う(写真集『東京のクリームソーダ』)。
 つまりこういう文章をいくら書いてもだめで、「世界を立ち上げること」を成就させなければならない。話はそれからだ。
 メールを書き始めようとして、寝るまでの時間を逆算して「これくらいの時間でかかなければならない」と考えてしまった時点で「それではだめだ」と思い、何を書くつもりかわからずに、書き始めた今日のこれを、ここで終ると約1700字。なぜかいつも通りの長さで終わってしまうところが、どこかで抑制がかかってしまっているのか、と思う。
 「世界」はまだまだ広いな、と思う。
 メールはまたにします。それではまた。