(うんざりする)日常の構成美

 前日から2日間つづけて某市の文化施設のようなところに自習をするために来ていて(しかもほとんど同じ席だ)、たった2日の繰り返しだけれど週末の2日つづけばじゅうぶんで、「これがぼくの日常だったろうか」という錯覚を起こしそうになる。
 朝の10時か11時ごろに来て、この席に座り、テキストの頁をめくり、ノートをとり、昼食をビュッフェスタイルの食堂か弁当で済ませ、iPodの音楽をヘッドフォンで聴きながら、夕方くらいまで机につく、そういうことを毎日くりかえしてきた、という錯覚。
 目のまえのガラス張りの窓の向こうは円形に区切られたごく狭い中庭のようになっていて、外周には均等な大きさの砂利が敷かれ、内周には背の低い、ほとんど雑草のように見える草花が植えられている。ことによるとハーブかなにかかもしれないが、草花の名前はぼくにはわからない。わからないのも当然で、この世でぼくが見ることのできる植物は目のまえのこれだけ、という想像をしてみると、ぼくはこの雑草ような葉っぱにごく淡い親近感か愛情のようなものを感じてしまう。
 そういう思考の操作はこうして書いている文字、文章の「リニアである」という特性によるのか、と思う。
 今日ここに来ている何十人かの人びとにも、ぼくとおなじような、あるいはまったくちがう日常があるということを、目のまえの草が、たまたまここに植えられた(あるいは自然に生えてきた)、ということが教えてくれる。
 そう考えることも錯覚だろう。目のまえの草は、(ぼくがいなくても)ここにある現実の、ごくあたりまえの構成美だ。