世界のディテール、希望の感じ

「ほとんどのブログはすぐに読まれるために書かれるけれど、彼の日記は、最初の読者がいつ現れるかわからないまま、いつまでも現われないかもしれないという状態で書かれていたんです」
 その年の夏に行われた公開対談で、作家は言った。
「それで、彼にそのときの気持ちを聞いてみたら、『不安ではなく、希望の感じだった』っていったんですよ」
 意表をつくその言葉が聞けただけで、僕はその日、その場所にいられてよかったと思った。
 満月に近い日の深い夜、川辺のキャンプで月の光と焚火の明かりに包まれて、初めての人と話したときのこういう言葉。
「それを見て、何を感じましたか?」
 少し前に観てきた美術作品について、熱を込めて話していた自分は虚を突かれた。それは久しぶりのまとまった休みに行った旅行先で観たもので、旅の土産話としてそのことは色々な人に話していて、自分としてはその話をすることに慣れていたはずだった。僕の話に対する相手の反応も、いくつかのパターンを経験していて、それに対する返答も、なかばルーティンと化していたはずだった。
 けれどそういう単純な質問に、簡単には答えられない、ということにどきりとした。
 キャンプはその前日からで、初めの日の夜は、僕たちより一回り年長の、僕たちにとってヒーローと呼ぶべき人と一緒だった。
 会話の中で、メディアの話になって、「ニュースにキャスターの主観を入れられるのは鬱陶しい」「キャスターなのだから、事実を淡々と伝えるべきだよな」という流れだったのだが、その人は、「だけど、主観の入っていない情報なんてないんだよ」と言ったのだった。その言葉自体、僕にとっては自明のことだったが、僕はそう思いながら、その言葉を、僕のものとして発することはできなかった。辛うじて、その言葉を継いで、「公正中立なんて立場はないんだよね」と言っただけだ(それも「こ、こうりつちゅうせい、ちゅうりつ?」なんて舌を噛みながら)。
 これらのことは、この間の経験が思い出として、僕によって他の人に語られるときにはカットアウトされる部分だと思う。「不愉快なギャルサーの記憶」と同じで、「思い出のノイズ」とも言えるものだ。だけど、だからこそ、僕はこれらのことを憶えていたい、と思う。憶えていたいけれど、なかなかこれらのことを、他の人と共有することはできない。端的にいって、話題にすることもできない。だからこそ僕は、そういうことを話すことができる相手が好きだ。
 それが真琴だったというわけで、これを読んでいるあなたには、真琴という人物は「ありえない理想化された人物」に見えるのかもしれない。けれどそういう人は本当にいる。それを彼女に会ったことのない人に、言葉だけで説明するのは絶望的に困難だけれど、だからこそこうして言葉を重ねる甲斐がある。だからこそ、僕は彼女を生涯の伴侶に選んだのだ。
 そういう選択をするうえで、ヒントとなった友人の言葉。
「この世界はものすごいディテールに溢れているのに、視線の矛先が人間にばかり向いているこの時代で、視野が狭くなることで、人間ごとにしか関心が向かない狭い世界が拡大されて見える」
 人間については書かれすぎた。僕も書きすぎているかもしれない。だからこそ、本当のこと(=世界のディテール)を知っている人が、見ている世界について、言葉を重ねたい。