今の自分がこうであることはすべて自分のせいだと思えば、たぶん世界は簡単にまわる

 恵理子は完全にピッチャーとして球を投げていた。癖のついていない、きれいなフォームでのびのある速球を彼女は常にまっすぐに投げた。ほっそりした体の恵理子は、じつは確かな骨格と筋肉とを持っていることに、やがて洋介は気づいた。上体と腕の動きに、無理のない一体感があった。窮屈さをまったく感じさせない肘の使いかたと胸の張りに、洋介は感心した。そして、このピッチャーは上半身の力で投げるタイプだと、彼は判断した。(「私とキャッチボールをしてください」18-19ページ)

 彼はドアを開いて運転席に入った。左側のドアへ上体をのばし、ロックを解放した。真理子は車体の左側へまわり、ドアを開いて、なかへ入った。ふたりはそれぞれにドアを閉じた。(「夏はすぐに終わる」58ページ)

 ゆっくり、彼は自転車のペダルをこいだ。ごく普通の自転車だ。この町の主婦たちのあいだに、二、三年まえ、このようななんの変哲もない自転車が流行した。いま彼女たちが好んで乗っているのは、スクーターだった。(「あの雲を追跡する」78ページ)

「いまのがもうじき終るから、きりのいいところなのよ。次のをはじめから見られるのよ。なかは涼しいのよ」
 彼女の三つのセンテンスの語尾に、「よ」が三つ重なった。それを受けとめて、哲也は優しい笑顔になった。父親と母親の両方に似た、ハンサムな少年だ。彼は窓口へ歩み寄った。入場券を買った。なかの女性は小さな半券を窓口のガラスの穴から彼に渡した。(「おなじ緯度の下で」157ページ)

片岡義男『夏と少年の短編』(ハヤカワ文庫)より

 9月6日(土)
 Zepp大阪でザ・ピロウズのライブ。住んでいる和歌山のこの町から大阪までは電車で2時間以上あり、往路ではピロウズの曲を予習しながら、帰りは終電車でねむたい目をこすりながら、片岡義男の古い文庫『夏と少年の短編』を読んだ。旅の道中には必ず本を持っていくのだが、久しぶりに当たり。行きは立ちっぱなしだったり、帰りはライブの疲れと眠気に襲われたりしながらも、「夢中」に近い感じだったと思う。和歌山を過ぎると隣で寝ている妻を措いて、空いてきた車内を移動、4人掛けのボックス席でゆったりと読んだ。
 ピロウズのライブを観るのは2004年以来2回目。変わらず、というよりますますカッコよく、素晴らしい。目新しいことろや突飛なところは全然ない、ごくごく当たり前のロックかつポップで、オルタナティブな音だけれど、ピロウズの音楽はピロウズに代えられない、ということを存分に感じられるライブだった。隣に自分と同じ年代か、少し年下かもしれない白人男性二人組(外人の年齢はわからない)がいて、うち一人の日本語を解するらしい方が、
「待ってるだけじゃつまらなくて/僕らは走ってる二度と戻れない道を/目を覚まして夢を知った/その未来は今」
 などと「その未来は今」を舌足らずの日本語でがなっているのを聴いて、少し感動した。ピロウズがアニメ「フリクリ」の全編の音楽に使われ(僕もこの素晴らしいアニメでピロウズにハマった)、フリクリアメリカでもヒットしたことでアメリカでもある程度人気があるらしいことは知っていたが、結成19年目になるというバンドの、
「19年前には、まさかこんな楽しい未来が待ってるなんて思ってもなかった」(山中さわお
 という言葉、日本語がわかる外国人やわからない外国人までもがその歌に聞き惚れている様子、時間や世界の奥行きを感じるそういう瞬間に、無条件に心動かされることが、ここ数年多くなっているような気がする。兄ならたぶん、
「歳とってきた証拠だよ」
 というだろう。明晰な兄はいつも正しい。その正しさは昔から僕にとって自明のことであって、10年後も20年後もきっと変わらないと思う。
 ところでピロウズ片岡義男はなんの関係もないが、ここに引用したように書く作家は片岡義男以外にはいない。「スノッブかつ都会的なセンスで恋愛小説を書き、80年代に一世を風靡した」ウィキペディアならそういうふうに書いているかな、と思って見てみたら、そういう形容詞すらついていなくてただ「当時の若者の絶大な支持を集めた」だったが、そういう評価や観察? 事実認定? はどうでもよくて、ただもう片岡義男にしか書けない、というか片岡義男しか書いていない文章だと思う。とくに引用した二つめの、
《彼はドアを開いて運転席に入った。左側のドアへ上体をのばし、ロックを解放した。真理子は車体の左側へまわり、ドアを開いて、なかへ入った。ふたりはそれぞれにドアを閉じた。》
 には激しく感動した。少なくとも僕には、この直前までの文章を渡されても、「ふたりはそれぞれにドアを閉じた」とは絶対に書けない。
 現実的ではないくらい完璧な女性像やスノビッシュな会話は「いまどきリアリティがない」という向きもあるかもしれないが、そういう理想主義的な部分も含めて、不遜なくらい唯一無二の片岡義男は、ダサい言い方かもしれないけれどロックだと思う。意外にピロウズのライブの道中に読むにはうってつけだったようだった。保坂和志がいうように、「リアリティがあるから面白いんじゃない、面白いからリアリティがあるんだ」。
 ピロウズに話を戻すと、山中さわおは浮世絵が好きでコレクションしているという。好きな作家は歌川国芳。ほんとうの音楽のほんとうのところに触れるには、ピロウズ(やそれ以外)の素晴らしい音楽に接する以上に、山中さわおの浮世絵に相当するものを、受け手も持っている必要があるんじゃないか、ということも書こうと思ったのだけど、今日は力尽きた。