『そして人生はつづく』

 ひとつの「映画」などどこにもなく、そこにはただ様々な要素がそれぞれ互いに無関係なまま投げ出されているだけである、と岡崎は言っているのだ。にも関わらずそこにひとつの「映画」をみるとしたら、それはシンクロニシティという「妄想」によってでしかないだろう。
 (……)映画においては、たまただ隣り合ったものが、まるで神に定められた必然であるかのように、関係をつくりだしてしまう。しかしこれは「映画」に固有の形式なのではなく、たんに我々が、たまたま隣り合ったという偶然を必然(運命)と読み違えてしまう(「妄想」してしまう)という傾向を、本来関係のないものに関係性をみてしまうという傾向を、もってしまっていることを、映画が利用しているに過ぎない。
(古谷利裕『世界へと滲み出す脳』194-195ページ)

 8月24日から26日にかけてめぐった「越後妻有大地の祭り2008」では地元のスタッフの人々が印象に残った。
 空家となった古民家を作品として再生する「空家プロジェクト」。そのひとつ、築100年の古民家で、棺桶のような木製のベッドにツナギのようなパジャマを着て眠り(宿泊し)、夢日記を付けるという体験ができるマリーナ・アブラモビッチの「夢の家」(ぼくは泊らなかったが)の案内役のおばさんは、ふつうの田舎のおばさんなのだけれど、作品の雰囲気に寄り添ったようなただならぬ雰囲気が漂っている。いや、たぶん、ほんとうにふつうのおばさんなのだが。
 ぼくたちはその日だけ旅行者としてそこを訪れるわけだがおばさんたちは毎日そこにいて日々訪れる旅人たちにはじめは自分たちにもよくわからないものだった美術作品について同じ説明を繰り返しているわけで、それはどんな仕事や自然環境、すなわち日々の営みがそうであるようにその人自身のあり方に影響を与えるはずだ。
 よりによってマリーナ・アブラモビッチのようなエキセントリックなアーティスト(「夢の家」の白壁には英語で“胸からの新鮮なミルクと精液からの新鮮なミルクを混ぜて、地震の夜に飲め”などという殴り書きがなされていたりする)の作品に、こんな里山で穏やかな人生を歩んできたおばさんを出合わせることはなかったのに、と考えてしまいそうだがそれは帰ってきてしばらくたってこの文章を書いているから出てくる考えで、その場では、さっきは「ただならぬ雰囲気」とか書いてしまったけれど「夢の家」のおばさんのすたすたと歩き淡々と喋る立ち居振る舞いは魅力的だと感じたのだと思う。端的にいって、いきいきしているように見えていたと思う。
 美術作品は生で見なきゃ話にならない、というのは本当だと思うけれど、今回の旅では、車で山道を走りまわって、下りたところで今度は山道を歩きまわって、というわけで美術作品を観たというよりアウトドアーな感じだった。帰ってきてここを観ると本物以上に良く見えるものもあると思った。