友人のブログへのコメントの続きの代わりに/あるいは、人生を賭けた「ちんぽ踊り」

 友人のブログへのコメントで、「20代なかばに見落としてしまったことは色々あって、『ブラウン・バニー』の面白さを友人に教えられるまで、『バッファロー66』で(?)と思ってからヴィンセント・ギャロをスルーしてた」と書いたのだが、『バッファロー〜』で僕が「?」となった理由が今はわかる。
 というか、この一文で重要なのはかつて「?」と思っていたことよりも友人に教えられて面白さに気づいたことだ。「教えられて面白さに気づ」くというのも正確でなくて、面白いと思うことは教えられるものではない(だってそうでしょ。いかに友人のススメだろうと、受け入れられないものは受け入れられない)。ということは、友人に「『ブラウンバニー』が面白い」と教えられたときに、僕には『ブラウン・バニー』を面白いと思う準備ができていた、ということになる。
 話を戻す。『バッファロー〜』に当時感じた(?)を具体的な感想として言うなら、メディアで色々と騒ぐほど派手でオシャレでかっこよくてクールで新しい映画じゃ全然なくて、いい映画かもしれないけど地味な小品、という感じだな、というものだった。『バッファロー〜』の日本公開が'99年で、『ブラウン・バニー』をDVDで観たのが'05年、その6年のあいだに僕がわかったのは、「もっとも大切なことはメディアに載らない(=語られ得ない)」あるいは「核心は自分の眼で確かめなければならない」ということで、この「眼」は、「視覚」のことではなくて、「精神」とか「五感フル回転」とか「自分全部」くらいの意味。
 早熟だったりセンスのよかったりする人ならそんなことにはもっと早くわかっているのかもしれないが、僕はほとんど20代全部かかった。
 だが「語られ得ない」なら、なぜ僕は友人に『ブラウン・バニー』の面白さを教えられ得たのか(「『ブラウン・バニー』を面白いと思う準備ができていた」のだとしても)。友人というのはライターで、僕はかれの書いた『ブラウン・バニー』のレビューを読んだのだが、そこに書かれていたのは「『ブラウン・バニー』について」というよりも、「『ブラウン・バニー』を観たことで友人Kが考えた『ブラウンバニー』とは別のこと」で、しかしそれはほとんどの『ブラウン・バニー』について書かれたものよりも饒舌に、しかも正確に『ブラウン・バニー』について書かれたことになる。僕は『ブラウン・バニー』について書かれた他の文章を(『バッファロー'66』のときと違って)他にほとんど目にしてしないが、にもかかわらずこのことは断言してもいい。(とはいえ、「何故そうなのか」を僕はクリアカットに説明できるわけではない。だが、その必要はない、ホンモノはホンモノなのだ……と、ここからは堂々巡りのようになってある種の「論理」の前には敗れ去るのだが、それでもやはり「そこにあるものが全てだろ」というのが僕の立場だ。)
 と、こういうことをいくら書いたとしても「能書きはいいから早くオマエのちんぽ見せてみろよ」と言われればその通りで、30代になった僕はそれをやっていかなかればならない。ある意味では、だからこそ人生は生きるに値するのだけれど。