私家版・本棚探偵の冒険

 トイレで読むのに本棚から適当に取ったのが『にっぽん野球の系譜学』(坂上康博著、青弓社)で、この本は出た当時に書評をきっかけに読んだ本なので奥付を確認すると2001年7月25日初版とあるから7年前に読んだことになるが例によって全く内容を覚えていない。
 とはいえいつ頃からか付箋を付けながら読むようになっているので、付箋をつけているところをぱらぱらめくってみる。付箋をしているということは気になったところなわけだが、付箋の付け方が、今は「気になった文章」につけているのだが、7年前は「気になったページ」につけていて、今読み返してみてもそこに付箋を貼った理由がよくわからない。
 わからないので付箋の前後のページをひとしきり読んでみて、気になったところを再度チェック、ここに引用してみる。
 その前にこれはどういう本かというと、本に挟み込まれた出版案内に紹介文が載っているのでそれを引用する。

日本野球は単純に精神修養の道具と化したのではない。明治から現代までの野球小僧たちの言説を読み、日本野球史を生き生きとしたドラマとして描く

以下は本書より。

 『野球部史』の編纂は、現役の野球部選手で、セカンドを守る平野正朝を中心になされたが、平野はその九ヵ月後に発行された「野球年報」第二号に「一高式野球」という一文を寄稿した。彼はこのなかで、つぎのように書いている。

 我日本に在ては此舶来の新技に附するに、日本魂を以てし、義あり礼あり、区々技の末に走るを廃す、即ち野球は漸次日本化しつゝあるのである、而も此日本化の醸造元、純粋の日本的野球、武士的野球は実に一高のそれではないか

 このように一高の野球部員たちは、従来の「校風」論を基調としつつも、新たに(1)野球の精神修養の効果と(2)野球の日本的な特性を強調しはじめるのである。以下では、これを「武士的野球」論と呼ぶことにしたいが、一高の野球部員たちは、なぜこのような主張を展開しはじめたのだろうか。こうした変化はいったい何によって生み出されたのだろうか。
(89ページ)

 「東京朝日新聞」の野球害毒キャンペーン。日露戦争後における野球にたいする弾圧をこれほど明確に示す事件はほかにない。野球害毒キャンペーンとは、一九一一年の八月二十日から「野球界の諸問題」、つづいて八月二十九日からは「野球と其害毒」と題して、合計二十六回にわたって「東京朝日新聞」が連載したものであり、野球は「対手を常にペテンに掛けよう、計略に陥れよう」などとする「巾着切の遊戯」である、といった一高校長・新渡戸稲造の辛辣な批判をはじめ、各界著名人や教育家らが、野球の「害毒」をつぎつぎとならべたてた。
(138ページ)

 明治維新後、アメリカから輸入された野球は、学生たちの心をたちまちのうちにとらえ、二十世紀に入るころには、学生スポーツのなかでも王座の地位を占めるようになる。彼らにとって野球は、正課体育において、教師の号令のもとに整然と行われる体操や軍事教練ではけっして得ることのできない「愉快」な体験であり、また、それは剣術や柔術などの日本の伝統文化にはない、青空のもとでの身体の開放感をもたらした。
(153ページ)

 愛媛県の山間部、大瀬村の新制中学に最初の一年生として入学した大江健三郎。「野球少年」は、「山奥の野球狂の少年」となった大江の心もとらえ、あこがれのプロ野球選手のイメージなど、彼の野球に関する創造力をかきたてた。

 ぼくは子供むきに書かれたあらゆる書物を軽蔑していたけれども『野球少年』という大判の雑誌は時どき読むことにしていた。ぼくは熱中してそれを読み、神話のなかのプシケについてイメージをつくるように、ドイガキについてアオタについて確固としたイメージをつくっていた。そして勉強どころか、教室のなかでさえ、ぼくの赤褐色をしたグロオヴに皮革油をぬったりバットの先端の形と風の抵抗の関係について夢みるような空想にふけっていたものだった。

(210ページ)

 打つのはかったるいけど、引用は楽しい。また「抜き書き帖」やろうかな。