日曜日は「○○だ」とみんなは言うけれど

8月3日(日)
1.
 昨晩少し遅かったために起床時刻がそのまま後ろにシフトして11時半過ぎに起きて、起きたそこは妻の実家であって用意されるがままに昼食に素麺を食べ終わったのが12時半過ぎで、出かける予定の2時まで約1時間半でその日のうちに返さなければならないDVDをノートパソコンで観た。
 DVDは10年ぶりぐらいに観る青山真冶の映画「Helpless」で、本編約80分でほぼ出発予定時刻に見終わって、近所の文化会館で2時半から映画「しゃべれども しゃべれども」、その後、同じ会場で二つ目の落語家・柳家三之助の落語2席、というイベント。
2.
 映画を観終わったあとに外に出ると世界がより鮮やかに色付いて見えたり「風を切って」歩くような気分になるという経験は多くの人にあると思うが、朝に家の中でパソコンで「Helpless」を観たときにはそうならなかった。
 映画にストーリーの面白さということよりも、映画のなかの世界の「世界らしさ」とでも言うのか、単純に「ホントっぽい」という意味でのリアリティだけでなく、映画のなかの世界として出来のよさだけでもなく、「ちゃんと(私たちが生きている)この世界と繋がっている感じ」、今ここではそれくらいにしか言えないがそういうものを求めるようになっている僕にとって、なるべく現実の世界がたくさん映し出されている映画がいい。つまりなるべくロケ撮影が多い映画がいい。
 ということはわりといつも思っていて「Helpless」も「しゃべれども しゃべれども」も外の風景がたくさん出てきていいのだけど、映画館(今回は文化会館だが)という外と隔絶した環境というのが映画に没入するためには必要で、リビングでしかもノートパソコンの小さな画面で見ていると絶えず外界からの入力がある、ということがやっぱり映画を観る行為にはノイズとして大きく影響するのだと思った。
 落語が終わって外に出て、4人でなぜか夕陽をバックに記念撮影。その夕陽がいつもより鮮やかだったのも映画(と落語)の効用?
3.
 夕飯の後、自宅へ帰る車のなかでは、「Helpless」と同時にツタヤで借りたTHE BACKHORNのベストアルバムを聴いて帰った。THE BACKHORNは「未来」という曲を「アカルイミライ」のエンディングで聴いて「すごくいいな」と思った覚えがあって、最近YouTubeでひさしぶりに聴いたらやっぱり好きだったので借りてみたのだが、他の曲は意外とヘヴィなロックだった。
 ハードコアやヘヴィ・ロックは高校生の頃よく聴いて今でも時々耳にすると「やっぱり好きだ」と思うのだが(手許にはほとんどない)、THE BACKHORNの音はかっこいいけれどそれでもスカスカな感じがして少し物足りなかった。どうせヘヴィならもっとヘヴィなものが好きだったと思う。当時好きだったなかではCOCOBATがTAKE-SHITひとりでやっていた頃の「FOOT PRINTS IN THE SKY」というCDなんかは今でも好きだろうな、と思うが今でも手に入るのだろうか。探してまで聴こうとは思わないけれど。
 COCOBATはその後いかついヴォーカルが入って「GRASSHOPPER」という曲がヒットしたけれど、マッチョな感じがあまり好きではなかった、ということを思い出した。COCOBATとかTAKE-SHITとかこのへんの固有名詞は思い出すのもひさしぶりで隔世の感とはこういうことか、と思うけれど、数十年たって聴き返すことがあっても「やっぱり好きだな」ないしは「好きだったな」くらいは思うのだろうな。
4.
 というこの8月3日の日記には書きたいこととその順番の便宜上、時系列でひとつ嘘があるのだが、ずっとあとになって読み返したらたぶん忘れていると思う。