壁新聞とその効用について

 朝のシャワーと晩の風呂の際に壁に新聞を貼り付けて読むようになってしばらく経つのだが、(一部の面だが)新聞を熟読する習慣ができて、自分の関心外のことが入ってくることが心地よいと思うようになっている。
 貼り付けて読んでいるのは文化欄とかスポーツ欄、社説や特集など、自分の興味のある分野や読み物として読み甲斐のある頁、記事であり、その意味では自分の関心の範囲内とも言えるのだがそれでも、新聞を読まなければ他のソースからは自分には入ってこなかった情報、という意味では「外」から入ってきたものであり、それが心地よい。
 今日は「ミュージック・ブレス・ユー!!」という小説のこと、草森紳一とその死のこと、「サイトウ・メソッド」、昨日は有島三兄弟のことなど、毎日意外とたくさんの未知のことに出合い、今それらを思い出しながら書き連ねようとして意外に出てこなくてだから結局意味ないのかといえばそうでもないと思う。
 というのはもう一度同じ情報に接したときに「聞いたことある」「それ知ってる」と思って記憶が定着するから、という実用的な意味ばかりでもなくて、いちいち覚えていないかもしれないが「読む」という能動的な行動によってある事柄が脳をスルーしていくことが心地よい……そういう言い方もまだ実利的で、そもそも「読む」という行為は本当に「能動的」と言えるのか、新聞を読んでいるときの頭の働きかたはテレビを垂れ流しているときと同じくらい受動的ではないのか……そんな気もしないことはないが、それでも読んでいなかったときと読むようになってからの「気分の違い」だけで、僕にとっては十分だ。
 新聞で知ることとなった「関心外のこと」は、なるべくすぐには調べたりしないようにしている。「関心外のこと」なのだから、とりあえずはそれでオーケー、と思っている。そういうことをするくらいなら、こうしてネットをしたりこれを書いている時間も含めて、もっと(新聞ではなく)本を読む時間に充てなければ、ということでもある。「時間に充てる」という言いかたがもう良くなくて、ただただ読めばいいのだけれど。