腐ったリンゴに泣かないで

 労働によってかかる圧倒的な精神と肉体への過負荷に比べれば、確かに“暗黒”であったハイティーンのあの頃――高校時代の鬱屈もちょろいものだ、というのが今の実感だが、自分の「あの頃」を支えていたのは音楽だった、「あの頃」を乗り切ることができたのは音楽のおかげだった、というのは僕だけではない多くの人にとっての実感じゃないかと思う。
 音楽はもちろん年齢など問わずどんな魂にとっても福音だが、「あの頃」どんなに音楽を切望していたか、その感じをちゃんと言葉にすること、あるいはその感じ(=クオリア)を「いまここ」に現前させることは不可能だろう。
 何の話かというと、自分の「あの頃」を支えていたバンドのひとつ、「スマッシング・パンプキンズ」がずいぶん前に再結成していることをたまたま今日知って、30歳を間近にした今の屈託も少し晴れるような気がしたのだ。
スマパン」は高校時代の僕のライブラリーのなかでもTOP3に入るくらい特別な存在だった。最近は全然聴いていないのに、結婚式で2曲も、それもお色直しの後の再入場というとっておきの場面で彼らの“Tonight,Tonight”を使ったのも、やっぱり今でも自分にとって特別だということだったんだと思う。
 ハイティーンの(少なくとも自分のような)屈託した少年にとって、《Today is the greatest day,I've ever known/Can't live for tomorrow》とか、《The impossible is possible tonight》とか、《We only come out at night》とか、《God is empty just like me》とか、《Disarm you with a smile》とか……こんなふうな観念的な言葉による世界の反転や「いまここ」の肯定は、正確な世界の描写や時間の層の積み重なり(今はこういうものの方に惹かれるが)なんかよりも近しい表現だった。
 スマパン解散後にやっていたというZWANというバンドやソロ作品も、世間や本人の評価はもうひとつみたいだが、それでもやっぱりよくて、美しくて汚くてかっこよくて切ない。二行前の「こんなふうな観念的な言葉による〜」などという言葉も、音楽の前では、あるいは「あの頃」が人生に及ぼす大きすぎる影響の前では無力だ。でも、だからこそ生きていけるとも言える。