自動機械

 昨日の日記は書き手の抱えている感情を「忘れちゃうひととき」という歌に仮託していると同時に饒舌体の文章そのものにも仮託していて自分が書いていながら違う声、違う精神が書いているようなものだと思う。
 日記というのはそれがウェブ上のものであろうと帳面につける自分だけのものであろうと(少なくとも「自分」という)読み手が想定されていて、そのときの第一読者である「自分」はたぶんここにいる自分とは違う「自分」である。
 なんてなことはこれまで多くの人によって書かれてきた多くの日記に言及されてきたか、言葉にはされなくても個々人によって意識されてきたことだろうが、日記というものを書き続けていると自己言及の誘惑は抗い難い。
 しかしながら自己言及というのはあらかたが紋切り型であり、だからこそ「共感」もされ、「嫌悪」もされる。またそれによって世界に「新しい何か」が付け加わることもない。
 それでも今日はこういうことを書いてしまうのは、昨日の自分が書いた「最近の気持ちの屈託」をああいう形で歌に仮託することによって精神の安定を図るやり口が気に入らないからだ。
 直球の自己言及というわけだが、「自分が書いていながら違う声、違う精神が書いているようなもの」というのはやはり「卑怯なやり口」じゃないか!
「そんなこと言われても……どういうやり方をしたって、それはオレの日記なんだからオレの勝手だろう」
「だがお前の精神の安定のためにあんなふうに歌の意味を措定してしまうような書き方は気に入らないな」
「自分の言葉で書いているように思わせておいて、こんな会話を挟むなんてやり方こそ、卑怯というものじゃないのか」
「そういう傍観者的な態度が気に食わないんだよ」
 ……こんな対話がいくら続いたとしても、こういう書き方ではいつまでたっても「精神」しかない。「人間」しかない。
 世界には文字通り精神の外に、人間の外に「世界」がある。世界の豊穣さを知ることが精神/人間の成熟であろう。そして成熟した精神/人間だけが世界に「新しい何か」を付け加えることができる。
 と、今日はただ単に長い文章を書いてみることが目的だったのだが、書くことがないのに文章を書こうとすると結局はあまり意味のあるものにはならないし、こういう内容ではこれくらいが限界なのだった。