夜の文庫と分館

 今住んでいるところは全て和室で三部屋ある。襖で仕切られたひとつながりの居間と寝室の他、衣服と本とその他雑多な物が押し込まれたもうひと部屋。
 そこは夫婦の間で通称「文庫」と呼ばれており、義父が作ってくれた本棚が壁の一方を占めている。夜になると文庫に行って本を眺め、読みたい本を居間に持ってくるのだが、そうして何冊も持ってくるものだから居間に文庫の分館ができている。
 本を読むときには、今読み進めている「メイン」の本があり、別にいくつかをぱらぱら眺めながらメインの本だけを読み進めるのだが、ぱらぱら眺めている「サブ」の本が多すぎで結局「メイン」も読み進められなくて「サブ」に成り下がり、そしてまた「メイン」になりうる本を文庫から持ってきたり新たに買ってきたりして読もうとするのだが、(以下ループ)。という有様で、先週末に買ってきた「パンク侍、斬られて候」もまだ半分。
 しかし本はそこにあるだけでは死んでいるも同然で、読まれなければそこに書かれている世界は立ち上がらない。音楽なら聴かれていなくてもそこに流れていれば存在するようにも感じるが(しかし本当はそれは嘘だろうが)、本は能動的に読まれなければだめだ!
 そう心中で叫び、「お宝!」といって古本屋でゲットしてから数年もそのままになっていた真鍋博『異文化遊泳』(1984年、中公文庫)などを眺めてみる。

 パリのオルリー空港はいわば“上野駅”である。“北”、つまり北アフリカへ帰る出稼ぎの人でごった返している。
 ブラック・アフリカの、あの真っ黒な人は少ないが、浅黒く、髪の毛も黒い人々で混雑している。ちょうどラマダンがあけて、バカンスの最中、日本でいえばお盆である。肌は黒いが、真っ白い頭巾をし、目鼻だちのはっきりした顔を丸く包んだ民族衣裳の女性など、しばし見とれるほど美しい。
 モロッコのラバトに向う機内で、わたしの横に坐ったのは、しかし、そんな美人ではなく、むくつけき若もの。わたしをまたいで窓側の席につくやいなや、鞄から手づかみでしわくちゃの札を座席テーブルの上にひろげ、数えはじめた。機内食が出て、なんとサクランボが盛ってあったが、彼はそれを二、三粒ずつ一度に口に入れ、モグモグとやって、種をペッペと小皿やコップを並べたトレイの上に吐き出すのである。機内食の上は種だらけ。それがこちらの食べかけの上にまでとんでくる。
(11ページ)

 というのが書き出しの1ページの全てで、まだそれ以上読んでいない。読みたい本が常にあるので、出先でうっかり持って出るのを忘れた場合や満員電車などを除いて、僕は「暇だ」と思ったことがない。だがそれはまた別の問題を孕むのだが、それはまた別の話。