『名画 裸婦感応術』からの抜き書き(続き1)

 ピカソがあれほどまでに影響を受けたというアフリカやイベリア彫刻だが、彼が興味を持ったのはあくまでも彫刻の表層部分である。ここでぼくにはひとつの疑問と不満が生じるのである。
 あれほどピカソがこれらの彫刻から強烈な霊感を得たのだったら、なぜ彫刻をものした黒人達の霊感に興味を持たなかったかということである。
パブロ・ピカソアヴィニョンの娘たち」47ページ)

 芸術家はよくシャーマンに譬えられる。それは直感によってインスピレーションがもたらされるとされているからだ。とはいうものの現代の美術家はむしろ直感より観念を優先させることを標榜する傾向が強いが……。
 ぼくはこのことを残念に思う者である。芸術は常に受身で迎え入れるもの、つまり「迎術」ではなかったのかというのがぼくの創造の源泉になっているから、ついピカソにも文句を言ってみたくなるのだった。
パブロ・ピカソアヴィニョンの娘たち」51ページ)

 僕がこの絵をこの欄でとりあげた理由はすでに書いた。手が女の裸のように見えてエロティックだからである。こんな風に指を交差しただけでわれわれの想像力は急に飛躍してしまう。もし交差していなければ、ただの指でも誰も女の裸を想像したりはしないだろう。いったんこの手が女の裸に見えてしまうと、もう目はそうと決めつけてしまう。
 次は壁に開けられた四角の穴が、また急にエロティックな舞台装置に見え始めるではないか。背景の青い空や赤い球までが、何か妖しげな色に思えたりする。一度そう見えてしまうと、この絵のひとつひとつの事物や色がいっせいに何かを語り始める。このようなことが起こって絵は見る人とひとつになっていくのではないだろうか。
マックス・エルンスト「透き通った最初の言葉を聞いて」79ページ)

 でもマグリットはなぜか好きである。どういうところが好きであるかというと、彼の一枚の絵には何種類かの違った描写がされているからである。
 この作品に関しては該当しにくいが、大抵の絵には事物を見ながら描いた部分、目の記憶によって描いた部分、写真や図版を模写するように描いた部分、これらの3つの、または4つの要素が一枚の絵の中に見事に調和しながら共存しているのである。マグリットの絵の不思議さはアイデアにもよるが、この多様な様式の統合に負う部分も多いのである。
ルネ・マグリット「無謀な企て」83ページ)

 愛の対象を描くことには何も不思議はないが、いったん妻が裸になって夫に描かれ、それが公開されるという状況には、どこか夫婦の行為が連想されて見る者には別の興味が湧いてくる。芸術をこんな不純な眼で見る奴の顔が見たいと言われれば、ぼくは顔を伏せて逃げるしかない。
ジョルジョ・デ・キリコ「海辺の水浴図」95ページ)

 それにしても最後の作品に彼は若い頃の妻を描こうとしていたのである。彼の主題と様式は多様であるが、そこには秩序だてられた時間はなかった。過去の作品を再び取り上げたり、昨日と今日の作風の間には何十年の開きがあったりしていた。キリコの時間はある一定の方向に流れているのではなく、ばらばらに時間が配置されている。それがいつ顔を出すのか誰にもわからない。まるで時間の迷路に迷い込んでしまったようだ。それがぼくにはたまらない快感になるのである。
ジョルジョ・デ・キリコ「海辺の水浴図」99ページ)

 ルノワールもそうだが、ボナールの求めるのは心の平安と生の歓びだったように思うのは、彼のリラックスした情景絵画(?)がそれを物語っているからである。誰だったか今すぐには思い出せないが、「暗いものは絵に描かない」といった画家がいる。それがマチスであったか、ルノワールであったか定かではない。
ピエール・ボナール「入浴する裸婦」103ページ)

 ぼくは現実を死の側からの視線で眺めたい、死を現実の側からの視線で覗きたいといつもそう思っている。死の側から見たこの現実を描きたいと。
 ホッパーのこの作品は正にぼくが求める視線で描くことに成功しているように思う。
エドワード・ホッパー「ある都会の朝」117〜120ページ)

 名画などは実に手をがっちりと描いている。また手が描けない画家は一流ではないという人もいる。手はそれほど難しいのである。デ・くーニングが手で難航しているのが手に取るように痛いほどわかる。勿論ぼくの経験からいっているのである。いっそのことピカソみたいに手の指をバナナみたいに描いてごまかす手もある。多分ピカソも難航の果てにあんなバナナの房のような手にしてしまったのだろう。ぼくは「さすが天才!」と感心するのだった。
(ヴィレム・デ・クーニング「女Ⅰ」「ピンクの天使」129ページ)

 ところが最晩年になると、あの強烈な色彩と形態は、もつれた糸がほぐれたように、するすると色の線が白い画面をはいまわるものに変わる。そしてその結果はプロの画家の絵というよりは、何のイメージも持たない「無題」と名付けられる絵画になっていく。
 ぼくはデ・クーニングの絵画人生を追いながら、人間も最後はこのようになって終わっていくのが一番理想的ではないかと思えてきた。
(ヴィレム・デ・クーニング「女Ⅰ」「ピンクの天使」134ページ)

パブロ・ピカソアヴィニョンの娘たち」

マックス・エルンスト「透き通った最初の言葉を聞いて」

ルネ・マグリット「無謀な企て」

ジョルジョ・デ・キリコ「海辺の水浴図」

ピエール・ボナール「入浴する裸婦」

エドワード・ホッパー「ある都会の朝」

ヴィレム・デ・クーニング「女Ⅰ」

 今日でこの本の抜き書き、終わろうと思ってたけど、もう少し続きます。本当に自分で文章書く以上に疲れる!