横尾忠則『名画 裸婦感応術』から抜き書きする/福岡市美術館『肉筆浮世絵の世界』展

 昨日の日記に書いた借りた本からの抜き書き。
 横尾忠則『名画 裸婦感応術』(光文社 知恵の森文庫、2001)

 この裸の女性はムーランといって当時19歳位である。「草上の昼食」の前年の作品「闘牛士姿のヴィクトリーヌ・ムーラン」で初めてマネのモデルになり、その後13年間31歳までマネのモデルを務めた。
エドゥワール・マネ「草上の昼食」20ページ)

現代絵画ではモデルを使うよりも写真を素材にすることの方が多いので、モデル相手に描く絵はどこか時代遅れのように思われている。
エドゥワール・マネ「草上の昼食」20ページ)

 クールベには女が股を開いた陰部だけを描いた作品もある。
 これはオルセー美術館にあるが、さすが絵に鼻をくっつけて見ている人の姿は見なかった。
(ギュスターブ・クールベ「眠り」26ページ)
※「女が股を開いた陰部だけを描いた作品」は「世界の起源」(1866年)

 絵はそれ自体が官能の表現であるが、さらに官能的な主題を扱ったクールベに画家のぼくが魅かれたとしてもちっとも不思議ではないだろう。
(ギュスターブ・クールベ「眠り」26ページ)

 乳房が随分下のほうに描かれている。お臍と近過ぎはしまいか。完全にデッサンが狂っている。そんなことを承知の上でゴーギャンはどうしても乳房と乳首を描きたかったのだろう。
(ポール・ゴーギャン「ネヴァモア」30ページ)

 裸婦を前にして画家はクールでなければならない必然性はない。女性の裸体美の純粋追求に一切の性的欲望から自由になれる画家って本当にいるのだろうか。ぼくなどは修業が浅いのでもし裸婦などを前にして制作しなければならない羽目になったら、どう感情をコントロールしていいやら危ないものだ。
(ポール・ゴーギャン「ネヴァモア」31ページ)
 
 美しい女性と美しい絵は別である。美しい女性が見たいのか、美しい絵が見たいのかということになると、このセザンヌの女は美において失格である。だけれどもこのちっとも美しくなくエロティックでもないはずの女性が、絵においては美しいのである。ああややこしいと言われるかもしれないが、問題はあなたにあるのである。
 もし美人やセクシーな女を見たいのだったら、別の絵を探してもらうしかない。だからここでは、絵それ自体を見てもらいたいのである。言いかえれば絵の一つ一つの筆のタッチを見て、そこに美を発見してもらいたいのである。もちろん筆のタッチだけではなく線や色彩や構図も、同時に見てもらわなければならないのである。
 すると裸の女に美を見つけるように、絵の地肌が俄然美しく見えてきたり、筆のタッチが急に気持ちよく見えて、エロティックに思い始めるというような現象が起きるかもしれない。
 もしそうなったらしめたものである。あなたは芸術の眼を手に入れたことになるからだ。あなたはもうすでに空の部分を見ながら、ドキドキ、ワクワクしてエロティックな気分になっておられるかもしれない。
 女の裸の絵を見て、胸をときめかしているあなたは、絵を感性で見ないで頭で見ているのである。頭できれいな女だなあ、とかエロティックだなあと思っているのである。ぼくは別にそんなあなたを批判したりはしません。ぼくだってそう思って見るときがあるからだ。
 だけれども、もしあなたが感性で絵を見ることができるようになると、セザンヌのリンゴの絵や山の絵を見てもゾクゾクされると思う。このゾクゾクは頭が思っているのではなくあなたの肉体が感じている力なのである。この感覚がつかめれば、壁のしみも泥水さえも美しく見えるようになるだろう。世界全部が美しく見えるようになるかもしれない。
ポール・セザンヌ「大水浴図」42〜44ページ)

 もっともっと付箋をつけているのだけど、今日はここまで。セザンヌのところを読み返していたら、ずっと抜き書きしたくなって長くなってしまった。抜き書きは自分で文章を書く以上に頭を使うような気がする。自分で考えられる以上のことが書かれているからその箇所が気になって付箋を貼るし、読み返したくなるからだ。
 これを読んで行くよう勧められて、見てきた展覧会は、福岡市美術館の『肉筆浮世絵の世界』展(2015年8月8日から9月20日まで開催)。閉館時間後に開かれた学芸員トーク「メンズナイト」(男性限定の特別観覧。トークは中山喜一朗福岡市立美術館館長)にも行った。公立美術館初めてだという春画の展示もあって、めちゃくちゃ面白かった。

名画裸婦感応術 (知恵の森文庫)

名画裸婦感応術 (知恵の森文庫)