2015年1月13日

 映画やドラマを見続けていると、小説という表現の弱さを思う。
 映像と音で刺激を与える映画やドラマに比べて、小説は抽象的な記号でしかない字を追わなければならない。僕は以前、映画やドラマは観客に時間を「与え」、小説は読み手の時間を「奪う」と考えたことがある。

小説は何がどう書かれようが文章の連なりでしかないから、読者はそれを読まないと始まらない。というか、書かれた文字はそれだけでは存在しているとは言えず、読まれることで初めてこの世に存在する。読者にとって小説は、時間を使って獲得するものだ。あるいは、読者の時間を奪うものが小説だと言ってもいいかもしれない。一方で音楽や映画は聴く者、観る者に時間を提供する。聴く者、観る者にとって、音楽や映画による時間は、与えられるものであり、向こうからやってくるものだ。

小説「美しさ(Joy of Life mix)」より

 書き手としての「私」が獲得した時間、読み手としての「私」が奪われた時間の分だけ、そこに小説が生まれるということか。あれ、その逆か。
『ハウス・オブ・カード 野望の階段』のシーズン1、計13話を見終わりました。この娯楽性はハンパない。この数日○○○するの忘れてたくらい。